176 ブライアント・パークの再生事業 (アメリカ合衆国)

176 ブライアント・パークの再生事業

176 ブライアント・パークの再生事業
176 ブライアント・パークの再生事業
176 ブライアント・パークの再生事業

176 ブライアント・パークの再生事業
176 ブライアント・パークの再生事業
176 ブライアント・パークの再生事業

ストーリー:

 ミッドタウンの中心にあるブライアント・パークは、パブリック・ライブラリーに隣接して存在する170メートル×140メートルの公園である。
 この土地は1822年にニューヨーク市が所有することになり、しばらくは共同墓地として使われていた。1842年以降は、貯水池がつくられたが、1899年にはパブリック・ライブラリーをつくるために潰され、1930年には公園として整備されることになった。ただ、ここは六番街の地下鉄のトンネルを掘る際に出た土砂の置き場所として使われたこともあり、周辺より1.2メートルほど高く、さらに周辺から見えない生け垣などを設置したため、麻薬の取引がされるような治安の悪い場所となっていった。さらに1970年代にはニューヨーク市の財政が破綻しそうになり、この公園の維持管理もされなくなり、人々が近寄らないことでイメージも大変悪いものになってしまった。
 その状況を改善させるために、公園の管理をニューヨーク市役所からブライアント・パーク公社(Bryant Park Corporation)というNPOに移管し、さらにその公社のもとで空間的再生事業を1988年と1992年に遂行した。
 この空間的再生事業をするうえでは、著名な都市研究家であるウィリアム・ホワイトが提唱した同公園の再生指針を重視した。彼は、公園のデザインも高い生け垣に囲まれていたり、公園の入り口が狭いこともあったりして中の雰囲気が分からないために不安を煽ることや、食べ物を買う場所もなく、イベントもなく、そして何よりも座る場所がないことを問題点として指摘していた。
 そして、その問題を改善させるために公園の入り口を大きくし、通りから公園への視界を遮っていた生け垣を取り除くことを提案し、さらにはメインの入り口にキオスクを設置することを提案した。そして、小さな緑の椅子をあちらこちらに置き、人々が公園の好きなところで座れるようにした。加えて、屋外映画などのイベントをここで企画し、チェスやチェッカー・ゲームを公園利用者に貸し出すためのワゴンを設置した。また、レストランと小さなカフェを、以前は誰も利用していなかった空間につくることにした。
 大幅な再生事業を実施したことで、状況は格段に改善され、周辺の地価は事業完了後の8ヶ月で60%も向上し、重罪事件は年に1回以下にまで減少し、何よりそれまでほとんど使われなかったこの公共空間は、現在では1日に4400人ほどが利用するようになっている。そして、それは1970年代に自治体経営のどん底を見たニューヨーク市が1990年代に見事復活した象徴としてまで捉えられるようになった。

キーワード:

公園, 公共空間, パブリック・プライベート・パートナーシップ, ウィリアム・ホワイト

ブライアント・パークの再生事業 の基本情報:

  • 国/地域:アメリカ合衆国
  • 州/県:ニューヨーク州
  • 市町村:ニューヨーク市
  • 事業主体:Bryant Park Corporation (BPC)
  • 事業主体の分類:NGO
  • デザイナー、プランナー:プロジェクト・フォア・パブリック・スペース(ウィリアム・ホワイト)、Bryant Park Corporation (BPC)
  • 開業年:1988年, 1992年

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 1990年代前半、マンハッタンの治安はよくなかった。地下鉄で寝込んだら命がないと脅かすものさえいた。夜、女性が歩いていたら襲われても本人に責任があるとまで言われていた。そしてそのような危険なマンハッタンの象徴がブライアント・パークであった。そこは、夜はもちろんのこと昼でも訪れる人は少なく、生け垣に囲まれて周辺から視界のないこの公園は、麻薬の取引をするには絶好の場所となってしまった。このような状況になってしまった背景としては、ニューヨーク市の財政危機により警官の数が減ったことや、公園の維持管理がされなくなったことなどがあげられる。
 そこでニューヨーク市は本来であれば自治体の業務である公園の管理業務を民間のNPOのブライアント・パーク公社に任せてしまうという判断をする。しかし、この責任放棄とでも言われる行為が、結果的にブライアント・パークの再生につながることになる。当時のブライアント・パーク公社の代表はウィリアム・ホワイトの下で調査研究の手伝いをしたダニエル・ビーダーマンであった。再生のポイントは、その空間の再編であった。そして、再編事業はアクセシビリティを改善することを重点に置いた。生け垣を排除し、視界のアクセシビリティを改善し、入り口などを広くすることで移動のアクセシビリティを改善し、またイベントを企画し、カフェ・レストランを設置することなどで公園にアクセスするための動機付けを行った。
 ブライアント・パーク公社によって、ニューヨーク市が管理していた時に比べて6倍の予算が投下されており、また、この出費を回収するためにイベントやレストランの運営がなされている。現在ではマンハッタンのまさに中核において、隣接するパブリック・ライブラリーとともにマンハッタンのオアシスとしての役割をブライアント・パークは見事に果たしている。そういう点では素晴らしい「都市の鍼治療」事例であると思われるが、その成功は一方で、自治体の存在意義や公共空間の公共性などを考えさせる興味深い事例でもある。

【参考資料】
『Great City Parks』Alan Tate著
『オープンスペースを魅力的にする』プロジェクト・フォア・パブリック・スペース著、服部圭郎ほか訳

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