278 日本大通りの再整備(日本)

278 日本大通りの再整備

278 日本大通りの再整備
278 日本大通りの再整備
278 日本大通りの再整備

278 日本大通りの再整備
278 日本大通りの再整備
278 日本大通りの再整備

ストーリー:

 日本大通りは横浜で幕末の1866年に起きた大火の後の1870年に、イギリス人の建築家R.H.ブラントンによってつくられた日本最初の西洋式街路である。ここ周辺は横浜港開港(1859年)とともに外国人居留地となったが、大火後に区画整理をして、横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路が整備される。1875年にはこの街路は「日本大通り」と命名される。沿道には、神奈川県庁舎(現在の建物は関東大震災後の1928年に竣工)や横浜地方裁判所をはじめとして重要な公共建築が建てられる。
 整備当時は歩道3メートル、植樹帯9メートルの、幅員が36メートル(車道の幅員は12メートル)という広大なブルバードであった。この幅員の広さは、日本人街から外国人居留地への延焼を防止するための防火帯としての機能、さらには外国人居留地と日本人の住まいとを分離をする意図もあったと推察される。明治時代には、人力車や車が行き交う街のメインストリートとしての役割を果たしてきた。 
 その後、関東大震災の復興整備によって、車道の幅員が22メートルにまで広げられ、歩道は植樹帯も含めて7メートルにまで削られる。このとき、新たに植えられたのが火に強い樹である銀杏である。震災復興時にはまた、現在の日本大通りを彩る多くの歴史的建築物がつくられる。神奈川県庁も1928年に竣工し、横浜商工奨励館(横浜情報文化センター)は1929年に竣工、日本綿花支店(その後の関東財務局)は1928年に竣工した。三井物産横浜ビルは1911年に竣工したが、これは関東大震災でも倒壊を免れた。これは、現在最古のRC造建築でもある。
 1977年には「日本大通周辺地区指導基準」を定め、歴史的建造物を活かした街並み形成の推進を始め、1981年には旧横浜英国領事館を買収改修し、横浜開港資料館として再整備を行うなど歴史的建造物保全活用を進めていくが、大きくこの通りが変貌するのは21世紀になってからである。
 日本大通りを再び自動車の移動を優先したのではなく、歩行環境としても、また植樹帯も豊かなブルバード的な通りとして再生しようという考えは、ウォーターフロントの再開発計画が進められ、みなとみらい線の整備、横浜赤レンガパークの開業などが展開する流れとして1990年代頃から出てきた。そして、2002年のサッカーのワールドカップ開催を目指して、その再整備が行われた。これは、車線幅をブラントン設計の13.5メートルに戻す形で狭め、歩道を拡幅させた。また、歴史的建造物が建ち並ぶ通りの景観を維持するために、沿道の建物には壁面後退の規制を設けた。さらに、植栽の防護柵でもありベンチとも兼用できるストリートファーニチャーを設置させたり、サイン・デザインも改めて行ったりした。舗装は沿道の歴史的建造物と調和させるために自然石舗装で仕上げ等が行われた。
 加えて2002年にはワールドカップ開催期間に限定して、オープンカフェを実施した。その後、オープンカフェの常設を意識した社会実験を行い、沿道事業者有志で「日本大通り活性化委員会」を2006年に設立して、その後、ステークホルダー等との調整を経て、オープンカフェが設けられるようになった。また、日本大通りの道路空間を活用できるようにし、イベント企画者が中区役所に企画書を提出すれば、区が地域に資するイベントかどうかを審査した上で、それを後援する仕組みができあがっている。また、そのためのガイドラインも中区役所が作成・公開している。「日本大通り活性化委員会」は、この制度を活用して、日本大通りで年間を通して様々なイベントの運営を行っている。
 また、2009年に新たに再生された「象の鼻パーク」では、それまで日本大通りと象の鼻パークとを空間的に分断していた建物を取り除くことで、日本大通りから象の鼻パーク、さらにはその先にある海が展望できるようになった。このような再整備によって、日本初の西洋式公園である横浜公園と、横浜初の波止場「象の鼻パーク」という横浜の重要な場を結ぶ通りとして、日本大通りは、その役割をさらに強化している。
 日本大通は2007年に(社)道路緑化保全協会主催の第5回「菊池道路環境賞」、2011年には象の鼻地区とともに国土交通省の「都市景観対象(都市空間部門)」、2014年には第5回かながわ観光対象「観光による地域活性化事業部門」大賞を受賞している。

キーワード:

歩道, プロムナード

日本大通りの再整備の基本情報:

  • 国/地域:日本
  • 州/県:神奈川県
  • 市町村:横浜市
  • 事業主体:横浜市
  • 事業主体の分類:自治体 
  • デザイナー、プランナー:R.H.ブラントン
  • 開業年:1870

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 横浜市は日本で2番目の人口を誇る都市であるが、その歴史は浅い。また、位置づけとしても首都圏の一角を担っており、東京の2番手都市として、その人口に比して都市のプライマリー性は弱い。そのような状況下、横浜市はその都市アイデンティティをしっかりと構築することが強く求められる状況に常にあった。
 しかし、横浜市は幕末から明治にかけて、日本が大きく変革する時代に、日本で最初に開港したということもあり、その変革の最先端を受け入れてきた都市である。そのために、歴史は浅いかもしれないが、日本初というものが多い。鉄道(1872年)、ガス灯(1871年)、電話(1890年)、ホテル(1859年)などである。そして、ここで挙げた日本大通りは日本最初の西洋式街路であった。
 「都市の鍼治療」の取材シリーズで、横浜市立大学の鈴木伸治先生に横浜の都市デザインについて、いろいろと解説をしてもらったが、そこで日本大通を次のように述べている。

 「横浜公園は日本で最初につくられた西洋式の公園。そして象の鼻パークは横浜の港発祥の地。この二つの歴史的な場所を結ぶ通りで横浜を代表する通りである」(鈴木伸治 横浜市立大学国際教養学部教授インタビュー

 このように、歴史は浅いがこの150年ちょっとにつくられた建築物、社会基盤は日本の歴史上、極めて重要なメルクマールとなるようなものが多い。そして、日本的な伝統に乏しい横浜は、それらをうまく都市デザインという手法で、都市のアイデンティティづくり、個性づくりに応用した。そして、それを可能にしたのは、1971年、横浜市役所に「都市デザイン担当」が誕生し、横浜ならではのまちづくりを辛抱強く、そして大胆に展開してきたからであろう。そして、都市デザインによって創造された横浜の個性を表現するようなスポットを見事に繋げる役割を果たしていると同時に、それ自体も横浜の都市の格を高めるように機能している日本大通りは、まさしく横浜の都市デザインの象徴のようなプロジェクトであると考えられる。

【取材協力】
鈴木伸治教授(横浜市立大学)

【関連ページ】
鈴木伸治 横浜市立大学国際教養学部教授インタビュー

【参考文献】
『都市デザイン横浜カタログ』横浜都市デザイン50周年事業実行委員会、横浜市都市整備局、2022
日本大通りのホームページ(https://www.nihonodori.jp

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