312 ワルシャワ王宮の再建(ポーランド共和国)

312 ワルシャワ王宮の再建

312 ワルシャワ王宮の再建
312 ワルシャワ王宮の再建
312 ワルシャワ王宮の再建

312 ワルシャワ王宮の再建
312 ワルシャワ王宮の再建
312 ワルシャワ王宮の再建

ストーリー:

 ワルシャワ王宮は16世紀からポーランド分割の1795年までは、ポーランド君主たちの住居であった。その期間、増改築が繰り返され、特に最後の国王となったスタニスワフ2世アウグストは豪華な室内宝飾を施し、またポーランド分割中はその一部は新古典主義の意匠へと改築された。しかし、第二次世界大戦が始まった1939年に空爆を受け、さらには1944年のワルシャワ蜂起の失敗後はナチスによって徹底的に破壊される。1939年の空爆後、この王宮にあった貴重品などの多くはナチスによってドイツに持って行かれたが、ポーランド人が命をかけて一部を匿ったことで、これらは後述する王宮の復元時に無事に返されることになる。特にスタニスワフ・ローレンツ教授の下で、数名の人々が真夜中に廃墟となった王宮を訪れ、内装に使われた素晴らしい芸術作品の残りをかき集めて、それをフレスコ壁画と壁の間、柱の中、大理石の暖炉などに隠しておいた(Ciborowski)ことは、その復元時において極めて重要な役割を果たした。1944年のワルシャワ蜂起が失敗した後、既に破壊されていた城の残骸であった壁もドイツは爆破した。これは、王宮跡地を平地にし、そこに巨大な集会場を建築することを計画したからである。
 戦争直後から王宮の壁、基礎、地下室の破片を被災地から収集する作業が始まった。1949年にはポーランド議会はポーランドの歴史と文化を象徴するものとして、それを復元させるための法律を制定する。そして、ワルシャワ工科大学で教鞭を執り、第二次世界大戦中に学生達に旧市街地などのスケッチを指導していたヤン・ザフヴァトヴィチや、前述したスタニスワフ・ローレンツらが、ポーランドの歴史的建築物を再生させるために建築事務所「ワルシャワ再建事務所」を共同経営し、再生を具体化させるための青写真を描いた。
 1965年、残存した壁の一部、そして奇跡的に破壊を免れたクビキ・アーケード、1949年に再建された隣接する「銅屋根宮殿(Copper Roof Palace)」が歴史的記念物として登録された。ただし、王宮に関しては、社会主義政府がそのような必要性をあまり認識しなかったので、その復元がようやく決定されたのは1971年であった。その復元事業はポーランド共和国が積極的に関与した。
 ワルシャワ王宮の再建のための市民委員会がこの復元プロジェクトのマネジメントをするために設置された。その建物とそのインテリアを復元するための費用はすべて寄付によって賄うことにした。その周知活動が上手かったこともあり、多大なる市民の支持を受け、個人、企業、社会的団体から多くの寄付金が集まった。また、海外に渡ったポーランド移民の人たちからも多くの支援が得られた。その時の周知において配られたチラシには次のように書かれていた。「ポーランド内外にいるポーランド人諸君!ワルシャワ王宮が再建されることになった。廃墟から国民が協働してそれを再建しようではないか。自分がポーランド人だと思っている人は、誰もこの偉大な事業からは排除されることはない」。1975年5月には5億ズウォティ(現在 1ズウォテイは約36円)が集まっていた。
 その復元のための設計を担当したのは、ヤン・ボグスワフスキー教授の率いるチームであった。このチームに与えられたミッションは、1939年以前の状態に建築と、建築の内部を復元させることに加え、救出された王宮に以前あったものを全て元にあった状態へと戻すことである。
 王宮の復元工事は1971年に始まり、1974年には時計塔の時計が再び、時を刻み始める。その後、インテリアの復元工事が始まり、一般に公開されるようになったのは1984年である。ただし、大集会場の復元工事が完成したのは1988年であり、2009年にはクビキ・アーケイドが修繕され(この部分は奇跡的に破壊を免れた)、2015年には上部庭園が復元され、2019年には下部庭園が復元され、これをもってして王宮の復元事業は完成した。建築的には、ワルシャワ王宮は初期と後期のバロック様式を融合したものを復元し、インテリアに関しては、ポーランド・リトアニア共和国最後の国王であるスタニスワフ・アウグスト王の時代(1764-1795)のものを再現している。
 今、ワルシャワ王宮を訪れると、王宮広場の前にワルシャワ王宮が堂々とその威容を示している。そのファサードは煉瓦でつくられていて90メートルほどの幅がある。この正面には3つの塔が立っており、中心にあるのがジギスムント塔と呼ばれる高さ60メートルの時計塔である。両端にある塔はジギスムント塔を小さくしたような形状をしており、ジギスムント塔と同様に球根状の銅でつくられた塔が設けられている。現在、王宮は博物館として利用されている。王宮はファサードだけでなく、内部空間もジクムント3世時代が復元されている。
 1980年には、王宮はその周辺のオールド・タウン(「都市の鍼治療」事例311 ワルシャワのオールド・タウンの復元)の一部として、ユネスコの世界遺産に登録された。2022年にはその観光客数は175万人に達している。

キーワード:

建築復元,アイデンティティ,王宮,博物館,世界遺産

ワルシャワ王宮の再建の基本情報:

  • 国/地域:ポーランド共和国
  • 州/県:マゾフシェ県
  • 市町村:ワルシャワ市
  • 事業主体:ポーランド共和国
  • 事業主体の分類:
  • デザイナー、プランナー:スタニスワフ・ローレンツ (Stanislaw Lorentz)、ヤン・ザフヴァトヴィチ(Jan Zachwatowicz)、ヤン・ボグスワフスキー(Jan Bogusławski)等
  • 開業年:1984

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 ポーランドの歴史は悲劇の連続であった。国土を奪われ、その国が無かったことにするような政策が強制され、ようやく悲願の独立を果たしたと思ったら、再び侵略され、国土は蹂躙され、破壊される。第二次世界大戦後も、社会主義体制下に置かれ、ソビエト連邦による準支配下状況に置かれていた。
 そのような状態において、国を運営していくうえで重要なことは、アイデンティティを発露させ、そのアイデンティティを国民が共有し、また内外にそれを認識させることが重要となる。特に、ポーランドのように国土さえ喪失しまった国において、国という概念を人々に共有化させるうえでは、なんとしてもアイデンティティが求められるのである。このアイデンティティが希薄になっていくと、国としての存在意義も消失してしまうからである。今、まさにロシアによるウクライナ侵攻で生じていることは、ウクライナというアイデンティティを認めないロシアと、ウクライナにはロシアとは異なるアイデンティティがあると主張するウクライナとの対立である。ウクライナのアイデンティティの認識に違いがなければ戦争する必要もなくなるからである。そして、現在のウクライナが直面している危機をポーランドはもう200年近くも経験してきたのである。
 そのような中、都市空間はアイデンティティを発露するメディアとして極めて優れている。そして、それが首都であればなおさらだ。そして、その首都にある王宮は、まさにその一国が統治国家であることを象徴する。ワルシャワ王宮はワルシャワだけでなく、ポーランドという国においても、その歴史、国家といったアイデンティティを具体化する建築であった。その復元は、独立国家ポーランドが不死鳥のように復活したことを内外の人々に広く示すことになる。ただ、そのアイデンティティが強力なものであるがゆえに、その復元にはソ連が抵抗し、旧市街地(「都市の鍼治療」事例311 ワルシャワのオールド・タウンの復元)に比べても復元事業は遅れた。
 それにしても、この復元のストーリーの背景にあるのは、ポーランドの人々のそのアイデンティティを再生させるための凄まじいほどの執念である。そして、破壊されたものを再び、作り直す。これは、ドイツのように戦災によって歴史的建築物が破壊された都市でも見られることであるが、ワルシャワ王宮のように、その文化・民族的アイデンティティを象徴し、統治国家としてのシンボルでもある唯一無二の建物の再生事例とはレベルが異なる。そして、その膨大なる資金を寄付金で賄うという仕組みを採用したことで、復元されたワルシャワ王宮は、ポーランドの人々、そしてポーランドを支援する人々の思いが具現化した建物としての象徴的意味合いも有することになる。
 ワルシャワの王宮は旧市街地の一部として1980年に世界遺産に登録された。しかし、一度目の申請では落とされ、二度目の申請で通った。一度目の申請で落とされた理由は、オリジナルな建築ではなく、復元されたものということで、オーセンティシティという観点から瑕疵があると捉えられたからである。また、復元というのはいつの時代のものを選び、復元するのか、という問題もある。ワルシャワの王宮は17世紀のジギスムント三世時代のものに復元されたのだが、この復元する時代を選ぶというのは恣意的な行為でもある。ただ、オーセンティシティという点からの瑕疵があったとしても、「時代の意思を収める器としての価値があれば文化財と呼べるのではないか、というワルシャワの問いかけ」(鈴木、2012)は二回目には受けいれられ、これは普遍的な力を持つ、世界で共有されるべき財産として認められたのである。
 都市の鍼治療として取り上げるには、あまりにも大きな事業であるかもしれないが、このツボは打たなくては蘇生しないツボということで、事例311 ワルシャワのオールド・タウンの復元と併せて紹介させていただく。

【参考資料】
鈴木亮平等(2012):『ワルシャワ歴史地区の復元とその継承に関する研究』、日本都市計画学会都市計画論文集 Vol.47, No.3
Lozinska, Tamara (2017):”Warsaw”, Bonechi-Galaktyka
Ciborowski, Adolf (1964):”Warsaw - A City Destroyed and Rebuilt”
ワルシャワ王宮のオフィシャル・ホームページ(https://zamek-krolewski.pl/en/strona/your-visit/1212-royal-castle-destruction-reconstruction

類似事例:

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311 ワルシャワのオールド・タウンの復元
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