デッサウのバウハウス・ビルディングの保全

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キーワード:

アイデンティティ, 世界遺産, 歴史保全, 記憶装置, ドイツ, 教育施設, 歴史建築

鍼レベル:

ストーリー:

 デッサウにあるバウハウス・ビルディングは1926年にウォルター・グロピウスによって「バウハウスのアイデアを宣言する」ことを目的に計画され、設計された。その教育機関としての機能はナチス政府が台頭したことで1932年に閉鎖され、また1945年には建物の一部が破壊された。
 戦後、社会主義の旧東ドイツはバウハウスの価値を認めておらず、その活用も考えていなかったが、バウハウス設立50周年目の1976年に記念物保全のガイドラインに則って、それを保全する方針を決定した。そして、そこに「科学文化センター」を設立した。同センターは、バウハウスに関連する作品や資料を収集し始め、バウハウスの活動を再開するよう動き始める。旧東ドイツにおいて建築やデザインの教育機会をも提供し始める。1986年には東ドイツ政府の支援のもと「デザイン・センター」としてバウハウスは再開されることになる。その4年後に東西ドイツが再統一され、バウハウスをどのようにして継続させるかが議論され、1994年にバウハウス・デッサウ基金(Bauhaus Dessau Foundation)という非利益組織を設立することにし、そこが所有し、使用することになった。同基金は「バウハウスの歴史的なレガシーを保全し、また広く一般にこの施設を開放し、現在の空間的環境に係る問題の対策について研究する」ことを目的とした。同基金はザクソン・アンハルト州、デッサウ・ロッシュラウ市、そして連邦政府の文化・メディア省の予算によって運営されている。
 1996年にバウハウス・ビルディングはその近隣にある教員用住宅、そしてヴァイマールのバウハウス施設とともに世界遺産に指定される。現在では、毎年、世界中から10万人が訪れるデッサウ市有数の観光地となっている。
 バウハウス・ビルディングは現在では、デッサウ市の象徴ともいえる貴重な都市資源であることを多くの人が認識していると思われるが、旧東ドイツ時代において風前の灯火の状況に置かれていたこともあった。旧東ドイツがつくられた当初、先進的な工業デザインの学校であるバウハウスは社会主義の理念ともマッチしていると捉えられ、その存在は極めて好意的に受け入れられていたが、その期間は長くはなかった。戦後、バウハウス・ビルディングがあるデッサウ市の都市計画主任であったヒューベルト・ホフマン氏もバウハウスを再開させようとしたが、その計画は政治的な反対に合って頓挫する。ソ連の強力な支配下にあった東ドイツを含む当時の社会主義国家は、コンセプトとしての機能主義を嫌忌し始め、その象徴でもあったバウハウスは、積極的に否定されることになる。そして、1951年、当時の副首相であったウォルター・ウルブリヒトは「バウハウス・スタイル」を不適切であると批判し、その排除を訴えた。旧東ドイツでは、建設(construction)のことは話せても建築(architecture)のことは話せないような状況になってしまったのである。このヒステリーのようなバウハウスへの嫌忌は、ソ連の強力な影響力に加えて、当時の東ドイツが、西ドイツのものは全て否定したいようなメンタリーに陥っていたからだとも解釈できるであろう。
 状況の転換をもたらしたのは1953年のスターリンの死である。スターリンの死はソ連の政策を大きく転換させることになる。スターリンは反機能主義、反構成主義であったが、彼がいなくなったあと、それらを強く押し進める理由がソ連にはなくなり、また他国に押しつける必要も消失した。スターリンの後任者であるフルシチョフは、より実利的な立場を取り、合理性のある機能主義的な建築の必要性を訴えた。ウルブリヒトは、この方向転換に戸惑いがあったと言われるが、ソ連の意向に沿うことになる。
 そして、徐々にバウハウス・スタイルの価値も東ドイツ社会に再び受け入れられるようになり、バウハウス設立50周年の1976年にそれを再開させることをワイマールの建築・建設専門上級学校(Hochschule)の校長であるカール・アルバート・フックス氏が宣言できるまでに至った。
 フックス氏の宣言通り、バウハウスは東ドイツ政権下において保全指針が出され、そして東西ドイツが再統一された後は、しっかりとそのレガシーが次世代において継承されるように保全対策が立てられ、さらにそれをベースとして新たな価値を創造するような研究機関・教育機関として新しい章を書き始めることとなる。

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた14年間という短い期間に関わらず、総合的造形学校「バウハウス」が世界に与えた影響は大きなものがある。そして、それは日本でも例外ではない。2019年、バウハウスが開校100周年を迎えたこともあり、日本でもそれを祝すようなイベントが幾つか開催されたことは記憶に新しい。
 バウハウスの人類への功績の大きさは議論を俟たない。しかし、その功績を次代に継承していくためには、博物館的な役割を果たす組織が必要であり、それはデッサウのバウハウス・ビルディングが最適である。建築史の教科書では、その建物の写真が紹介されないことはない。まさにモダニズム運動の象徴のような建築物であった。それを保全することは、現在の我々は当然だと思うかもしれないが、戦後の旧東ドイツでは決してそのような考えを有していなかった。
 幸いだったのは、そのような偏狭な見方を政府がしていても、それを積極的に破壊しようとしなかったことで、その結果、廃墟のような形ではあったが、それを修繕し、再生させることができた。それは、デッサウ市、そしてザクソン・アンハルト州にとっては、大いなる幸運であったかと思われる。
 また、このバウハウス・ビルディングの保全が我々に伝えるメッセージとしては、現代建築も重要な歴史の「語り部」になり得るということである。現代建築がつくられ始めてから100年近くの歳月が経ち、それらの歴史的重要性が認知され、この建築物のように世界遺産にも指定される価値を有し始めている。なぜ、このようなことをここで記すかというと、日本は、これらの現代建築の価値を過小評価していると思われるからである。例えば、日本のモダニズム建築をリードした前川國男の作品でさえ、その保存の是非が議論され、撤去されるものが少なくない。
 100年前とほぼ同じ形で屹立するバウハウス・ビルディングをみると、これが現代においても存在していることの有り難みを痛烈に感じる。レルネル氏の『都市の鍼治療』には、「何もするな、慌てるな」という章がある。バウハウス・ビルディングに関しては、ドレスデンの聖母教会(ファイルNo.159)のように、とりあえず(無責任に)放っておいただけだったが、それが結果的には功を奏したと思われる。歴史の流れでみれば、まさに瞬間にしか過ぎなかったスターリンのドグマによってその価値を否定されたバウハウスであったが、否定はされても何もされなかったことで時代の荒波を乗り越えられた。再開発という名の下に古い建築を壊すような状況に直面した際には、今一度、それを壊すことで大きな価値の喪失に繋がるのではないかと思案することも重要なのではないかと示唆する事例である。

【参考資料】バウハウスの公式ホームページ
(https://www.bauhaus-dessau.de/en/history/bauhaus-dessau.html)

事業主体:

バウハウス・デッサウ基金

事業主体の分類:

準公共団体

デザイナー、プランナー:

ウォルター・グロピウス

開業年:

1926 (改修1976、再開1986)

類似事例:

159 聖母教会、ドレスデン(ドイツ)
180 門司港レトロ、門司区(北九州市、福岡県)
・ ケドリンブルクの歴史的街並み保全、ケドリンブルク(ドイツ)
・ ゴスラーの歴史的街並み保全、ゴスラー(ドイツ)
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146 ブリッゲンの街並み保全
172 ハッケシェ・ヘーフェの改修
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013 ローウェル・ナショナル・ヒストリック・パーク、ローウェル市(マサチューセッツ州、アメリカ合衆国)

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国:ドイツ
州・県:ザクセン・アンハルト州
市町村:デッサウ市