丸の内の価値をはかる(2)マラソンランナーの視点-2

■皇居 東京の中心には空白がある
 そもそも皇居はランナーの聖地として非常によく知られている場所である。都市に住むランナーにとっては、信号がない事、景色がいい事、がランニングコースの重要な条件であるのだが、東京という混雑した都市の中で、皇居はその二つの条件を完璧に満たせる数少ない場所なのだ。
 都市ランニングというのは都市の空白を探索する行為であり、信号がない、景色がいいという条件は、それぞれ車や建物をオブジェクトとしてみた時にそれらの隙間を見つけるための手段となる。最近NIKEがランナーの為に始めたサイトの中で、googleの地図上に自分の普段走っているコースをアップロードし、それを公開、閲覧できる「map it(注1)」というサービスがあるのだが、それをみると東京のランニング空間の分布を把握することができ、中でも特に皇居周辺はコース数が多いことがよく分かる。
 東京の中心に空白があるという事実は、10年前にフランスの記号学者ロラン・バルトによって「空虚の中心(注2)」と表現されているが、彼は同時に「永久に迂回し続けるという運動が東京という物語を加速させている」という興味深い指摘をしている。要するに都市の密度にやられた人々は、空白を求めて皇居の周縁に溢れ出し、ひとしきり回った後でまた都市に戻り、それぞれの物語を紡いでいく、ということなのだ。

■丸の内 東京の缶詰
 私も何度か皇居を走ったことがあるが、その時の体験から、もう一つの別の側面があることに気付いた。うまく表現できないが、皇居ランニングでみる都市の風景というのは、まるで世界の裏側から都市を眺めているように見えるのだ。けして皇居に面している建築が背を向けているわけではないのだが、まるで自分のいる世界が反転しているかのような錯覚を覚える。
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図3:宇宙の缶詰

 この感覚はもしかしたら赤瀬川原平氏の「宇宙の缶詰(図3)」的な世界観に近いのかもしれない。食べ終わった蟹缶のラベルを缶詰の内側に貼ることで、宇宙全体を缶詰に収めてしまうという発想と、皇居という空白の缶詰があることで、その外側にいる東京全体がすっぽりと収まってしまっているという錯覚にかなりの共通点があるのは気のせいではない。それはつまり、内側で都市を体験する視点から、外側から都市を眺める視点に移り変わったことを示していると言えるだろう。

 皇居から見える風景の中で、特に「東京の缶詰」であることを感じさせる場所は紛れもなく丸の内である。と、いうのも丸の内は建築ファサードが面的連続性(=缶詰のラベル)を獲得しているから、という極めて単純明快な理由によるのだが、そのことから逆に、丸の内は東京の缶詰として観察される価値のある風景をもっている、と言うことができる。また、都市のプロパガンダであった東京マラソンのコースのなかでも、丸の内はX文字型の中心付近に位置しており、都市の外側(=皇居)から内側に入る、都市のシンボルとして重要な役割を果たしていた、と言えるだろう。
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図4:皇居から眺めた丸の内

 さらに2007年5月に行われた東京ストリート陸上では、丸の内仲通りを陸上競技のフィールドとして使ったことで、今度は丸の内が観察される場所から観察する場所へと変化を遂げ、まさに内側からも外側からも両面にラベルが貼られている缶詰のような場所であることを気付かせられた。

 丸の内とスポーツ。その関係性は薄いと思われがちだが、都市の空白としてスポーツフィールドを捉えたとき、両者は密接に結びつく。多くの人から観察される丸の内という空間は、いわば東京という都市の中で大きな劇場としての価値を見出せるのかもしれない。

注1) http://nikeplus.nike.com/nikeplus/#mapit
注2) ロラン・バルト「表徴の帝国」(宗左近 訳 ちくま学芸文庫)

(藤井亮介)
2006年 東京工業大学建築学専攻修士課程修了 
現在、坂倉建築研究所勤務