2009年03月 アーカイブ

都市公園の量と質

■都市公園の整備水準
 東京都23区の1人あたり公園面積はわずか3.0㎡であり、ニューヨークの29.3㎡の約十分の一、ウィーンの57.9㎡の約二十分の一、と先進各国と比較すると非常に少ない(平成19年度末の国土交通省調査)。しかし、われわれの研究グループで東京都の住民に「自分のまちのどんな場所が好きか」を問うネットアンケート調査に対して、「公園」をあげる人が他を引き離して圧倒的に多かった。公園面積といった量的な指標では比較できない、文化によって異なる都市公園の価値があるのだろうか。都市公園に対する市民の関わり方を考えるために海外の例を見てみよう。

■ヨーロッパの都市公園
 東京ジャーナル2008年8月号と9月号では都市の広場を考えた。そこでは南欧やその影響の強いラテンアメリカの例を示したが、それらの国では都市の公共空間として広場が重視されている。それに対して公園を重視するのは欧州でも夏が短い緯度の高い国であるように思われる。
 「公園(Public park)」はもともと王の狩猟園地がイギリス市民社会の成立にともなって公衆の利用に開放されたもので、その典型がロンドンの都心部にあるハイド・パークである。東京の日比谷公園の約9倍の広い公園には乗馬用の道が巡っていたり、市民の自由な討論が行われる場所として有名なスピーカーズ・コーナーがあったりするが、全体としては多くの活動が見られるというよりは、都心にありながら静かな緑の保留地となっている。

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(写真左)イギリスの緑深いハイド・パークの落ち着いたたたずまい
(写真右)スピーカーズ・コーナー(1974年撮影:現在もこんなに活気があるかは不明)

 前述の1人あたり公園面積が東京の20倍もあるウィーンを歩くと確かに緑の多さが実感できる。旧市街を取り囲むように周回するリング通り〈環状通り〉は、歩道、車道、自転車道、市電と異なるモードの交通路が並行して走る。その通りに沿って点在する歴史的な建築を楽しむことができるが、それをつなぐように公園の緑が連なっているのである。またヘルシンキには港に面したマーケット広場から街の中心へ向かう2本の大通りに挟まれてエスプラナーディ公園があり、夏の昼休みには多くの市民が芝生で陽光を楽しんでいる。こういった都市を移動する人々の動線に沿って作られた都市公園は、奥の深い大公園と違って市民の日常的な利用を可能としている。

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(写真左)ウィーンのリング通り沿の緑と建築
(写真右)ヘルシンキのエスプラナーディ公園

■新世界の都市公園
 ニューヨーク市マンハッタン島の中央に南北4km、東西800mのセントラル・パークが計画され作られたのはおよそ150年前である。緩い起伏を作りいくつかの池を配して人工的に作られた公園は、今ではすぐ外に広がる高層ビル群と好対照をなす自然豊かなオアシスとなっている。園内には美術館、動物園、運動場、スケートリンク、野外劇場など市民を呼び込むレクリエーション施設が各種完備されているのはアメリカ的と言えるかも知れない。
 一方、カナダのバンクーバーの都心部には大きな公園はないが、周辺のいくつかの公園が自転車ルートによって結びつけられている。面白いのは、その自転車ルートの一部が小さなシーバスで入江を越えてつながっているところである。このネットワークは、「健康な生活を支える都市」としてのイメージを感じさせてくれる。

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(写真左)ニューヨークのセントラル・パーク
(写真中)バンクーバーの臨海公園
(写真右)バンクーバーの自転車ルートをつなぐシーバス

■東京の都市公園
 冒頭で述べたアンケート調査で、好きな場所として公園があげられていることから、現状に満足していると解釈することはできない。むしろ公園のさらなる整備の期待をくみ取ることが必要である。しかし海外の大公園を目標にして東京が規模においてそのレベルに追いつくことは不可能であろう。そこで発想を転換してはどうだろう。日本には、雰囲気の異なるコンパクトな空間を巧妙に配することによって、様々な体験を可能にする回遊式庭園の伝統がある。このような公園を作れば、面積がたとえ海外の大公園の十分の一であっても、それと同等の、またはそれを上回る効果をもたらすことができるかも知れない。さらに、公園を新たに作るより、もっと手っ取り早く、都が所有する「庭園」を公園として開放すれば済むのではないかとも思う。海外から訪れる友人を公開されている都内の日本庭園に案内すると、とても評判が良いのである。日本庭園のメンテナンスには費用がかさむが、新しく公園を作って一人当たりの面積をコンマ数%上げるより安上がりである。ぜひ東京都立の庭園を無料にして頂きたいと思う。

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東京都立庭園「六義園」とそこに案内したドイツからの友人

(大野隆造)

ご近所づきあいと大家族

■ご近所づきあいに求めるもの
 地域コミュニティの必要性は、いろいろな観点から言われていると思う。防犯のようにわかりやすい必要性から、人と人とのふれあいがある温かい暮らし方といった情緒的な必要性まで。
 私はといえば、たぶんごく一般的な感覚の持ち主で、一人暮らしや夫婦二人暮らしのときには、地域とのつながりを求めてはいなかった。せいぜい大家さんと仲よくしていれば事足りたのであって、誰かに助けてほしいときは身内や友だちを呼べばよかったのだ。
 そして、子どもができて、地域のありがたさを始めて知った。お隣さんに子どもがいたこともあり、子どもを預けあったりするのが、ほんとうに助かった。地元の公立小学校に子どもを入れたこともあり、商店街で知り合いに会うのも、嬉しい経験だった。
 ご近所づきあいはいいものだなあ、地域の小学校というのはコミュニティの中心となりうるなあ、というのが実感ではある。
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 ただ、つきつめて考えると、ほんとうにご近所づきあいがそんなにいいものなのか、小学校を中心としたコミュニティが地域の核となるのか、疑問にも思えてくる。
 そもそも、人づきあいはめんどうくさいもの。それに、友だち関係のような温かさをご近所一般に求めるのは、話が違う。
 助け合いのために必要とは言うけれど、地震などの緊急災害時の助け合い精神については、多くの事例が示しているように、私たちの社会はいまのままでじゅうぶんだと思う。それではふだんのささやかな助け合いのために必要かというと、日常的な助け合いには「他人様」は巻き込みたくないというのが、一生活者としての私の本音だ。つまり、子どもが熱を出したときなどでも、ほんとうに頼りになるのは身内か親しい友人であって、「ご近所」ではない、ということ。
 ほんとうにほしいのは、親しいご近所づきあいではない気がする。同じ家のなかに、大人が夫婦のほかにあと数人、ほしい。もちろん子どもも。いわゆる3世代同居であれ、違うかたちの大家族であれ。それで、多くのことは解決しそうだ。
 近所に住む他人とは、顔をあわせれば「こんにちは、風邪が流行ってるけど、お子さんは元気?」とにこやかに声が交わせて、ゴミを出すときに「近所が見ているから」と気にすることできちんと出せる程度がいい。長期間留守にするときに、「留守にしますから」と一声かけておけばほっておいてくれる程度がいい。
 地域に血縁関係はほとんどなく、他人同士が寄せ集まっている住まい方は、今後もそれほど変わらないように思う。いくつかの家族が集まって暮らすコミュニティハウスのような方向性ももちろん可能性が高いけれど、私はやはり、ひとつの大きな家族でひとつの家に住む暮らし方の方向性を考えたいのだ。
                    
■祭りの意味
 最後に。私はこの2月に秋田に行って、なまはげのお祭りを見て来た。このところ、暮らしの中に神や祈りがあることの(宗教的な意味ではなく、暮らしの豊かさ、暮らしの軸としての)価値を考えているせいもあるからか、お祭りが地域をつなぐ力にあらためて感心した。それは、「私は部外者だ」という物足りなさを強く感じたためもあるかもしれない。
 私の住む茅ヶ崎にも地域ぐるみの浜降祭という大きな祭りがある。ただ、私が住んでいる町はかつては松林だった地域なので、伝統ある神社がなく、祭りに参加しにくくも感じている。
 小さな物ひとつにも魂を感じ取る私たち日本人が、失ってしまった風土(それは八百万の神々を意味する)への帰属心をどう取り戻すのか。コミュニティの問題は、じつはそんなこととつながっている気がする。

(辰巳 渚)

上野は公園で故郷の夢をみる

■都市と公園
 上野駅不忍口を出て右手の階段を登ると、上野をよく散歩したという愛犬連れの西郷隆盛が立っている。この西郷像で有名な上野公園であるが、寛永寺が維新の戦火で焼失した跡を公園化したものである。西郷さんを記念しての公園と思い込んでいた。実はオランダ人医師ボードワンが病院建設予定地を公園として残すべきだ、と主張したことをきっかけに「近代的な」西欧式の公園として緑地保持されたとか。ちなみに日本初の公園のひとつとして指定されている。桜の種類が豊富で、早咲きの桜が2月から楽しめ、花見シーズンともなると人で溢れる。
 西郷像が立つ崖は表面補強するように建物で覆われており、ファサードのみのいかにも「東京らしい」複合建築を形成している。実はこの崖を覆う建物群の一部であり、建替えとなった聚楽台が入っていた西郷会舘は、近代建築の大家、土浦亀城の設計による。土浦は、東銀座の道路下をつなぐトンネル型映画館シネパトスの設計者でもあり、近代における都市と建築の融合を形にしているといえる。
 その象徴的な複合崖下はアメ横商店街を軸とするアジア的ゴチャゴチャな街並が広がる。崖上は対照的に寛永寺跡に建設された国立博物館はじめとする美術館・博物館群、東京芸大などで構成される多少西欧風の整地された文教地帯が広がる。さらに動物園から不忍池にいたる緑あふれる公園とそして周辺の住宅地には戦前の雰囲気を残す。この公園を中心とする一帯こそ、東京において「都市」と呼ぶにふさわしい状況を実感できる数少ない場所であると勝手に考えている。
 上野公園には様々な目的の人々が集まる。散歩する人、休憩する人、ラジコンを走らせる人、花見をする人、美術館に向かう人、学校に向かう人、そしてその日の寝床を探す人…。ありとあらゆる人々が交錯する公園こそ東京の都市価値を示すものと感じるのである。物的な都市とは人間の諸活動を分節化した専門分化して受け入れる容器としての建物によって構成されるもの考えると、公園はその分節化の果てに相対的に現れてくる余白、つまり専門分化しにくい活動を許容する空間といえる。西欧であれば、街路とその結節点としての広場がこの役割を担うであろう。西欧式の公園をもってして、ニューヨークのセントラルパークをはじめとする他国の大都市公園にはない包容力が演出されている。それ故におそらく本来「近代的な公園」が都市からの逃避空間をめざすことが目的であったのに対し、上野公園は、都市そのものを象徴しているように思う。

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早咲きの桜を愛でる外国人観光客やカップル

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崖上に立つ西郷隆盛像

■東京のふるさと上野
 都市らしさのほかにシチュエーション的にもう一つこの公園から受ける印象がある。今回歩いたのもまさにそんな状況下であったが、成田空港経由でこの地に降り立つと、この公園の姿にふるさとに帰ってきた実感を覚える。捉えどころがない街並とそれに隣接する公園の広大なもさっとした緑による、コントラストが濃く、彩度の高い景観が原因に違いない。
 他の都市にだって大きな公園はある。しかし、都市の様々な用途の結節点にある上野駅と上野公園特有の立地がつくる特殊な景観が醸し出す情感の存在を感じる。空港からのアクセスを考えると日本の玄関に存する上野公園は、古くから様々な人の出入りを見守ってきた。東京駅から降り立つ丸の内の景観とはまったく異なるゆるさを持っている。ある時は集団就職で東京に出てきた人々を迎え、ある時は海外からの不法滞在者を含めた外国からの労働者のオアシスとなり、今では寝床を失った人々の家となっていることは、他公園の事象に鑑みると、それなりの理由をこじつけたくなる。
 さて、今回そんな理由のこじつけを狙い、空港からの帰り道に公園を訪れたのはさほど遅くない夜であった。昼間の人ごみが消えた公園は非常に静かで、道一本隔てた繁華街の喧噪とは無縁である。暗闇の中に佇む西郷像の視線の先を追うと、アメ横方向が見晴らせる。この距離感が公園の眼下に広がる明るさと非常に対照的な空間にいることを意識させる。公園の逆サイド様では巨大な不忍池で距離をとる。夏には蓮の葉で埋まるこの池も今の時期には枯れていて、水面に映る対岸のビルが印象的である。公園口の方からは東京文化会館と西洋美術館が凛とした対称性で出迎え、その足下で寝床を組み立てているホームレスさえも自分の住処として誇りを持っているように見えるくらいである。様々な次元でのこの距離感が都市を客観的に感じる遠因に思えた。日本庭園が来世や極楽浄土を描くコンセプトと通じる。しかし、前述のような包容力を蓄え、都市の中にある非都市空間では決してない。都市の一部でありながら、社会から逸脱できる場所であるからこそ、遠く離れた真の故郷に対する第二の故郷として、上野が位置づいている理由がある気がするのである。

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崖上からの上野繁華街

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不忍池に映り込む上野の街

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線路下にも展開するアメ横の夜

(川上正倫)

住まいの価値を考える

■アウトレットマンション
 昨秋以降の経済不況が高まって以来、雑誌に「マンション投売り」「マンション底値買い」などといった見出しが躍るようなった。マンションの販売不振により、多くの在庫を抱えた業者が、その整理のために他の業者に売れ残った住戸を半額程度で一括売却し、買い取った業者が経費や利益を上乗せした上で再販を行うという形態(買取再販)が現れ、格安物件が多く放出され始めているのだという。このような物件は「アウトレットマンション」と呼ばれ、大変な人気を集めているそうだ。従来価格に比べ○○%オフ、今が底値でお買い得、買わなくてどうしますか?という訳である。
 確かにモノの値段が安くなるということは、一消費者としては歓迎すべきことであるが、このような記事を読むと、果たして長年の生活の基盤となるべき住宅を買う基準が、割安感・お買い得感だけでいいのだろうかという違和感を素直に感じてしまう。この「アウトレット」という昨今流行の言葉も、まるで衣服や装飾品のように軽く購入するものというイメージを植えつけるために、販売側が意図的に使っているという気さえしてしまう。そもそも、2007年から2008年初頭にかけては、地価や建設資材の上昇によりマンション価格が従来ないくらいに高騰していたという背景を考えると、○○%オフとは言っても、その実態は2006年以前のある意味正常な価格に戻っただけと解釈するのが正しいだろう。ここは今一度冷静に住まいの価値とは何かについて考え直したいものである。

■住まい手の生活の質と不動産価値
 このような住宅の価格の話題が出る時にいつも感じるのは、その価格は実際の住まい手が生活している時に感じる快適さや価値と一致しているのだろうかという疑問である。例えば、中古マンションの価格算定の根拠になっている主な要因は、駅からの距離、築年数、階、面積である。しかし、これだけの要因でそこに住んだ時の快適さが表現されているとはとても思えない。私自身が住み替えのために中古マンションを探していた時の例で言えば、角部屋の3面採光なのか、中間の住戸で1面採光なのかということや、窓の外に緑の並木が見えるのか、隣の住棟が見えるのかというようなことで、価格に差がつくことは一切なかった。毎日の朝食を、朝日に輝く緑を眺めながら取るのか、隣の住戸の視線を気にしてカーテンをしたままの薄暗い部屋で取るのかというのでは、非常に大きな生活の質の差があると思うのだが、そのようなことは不動産価値とはご縁がないようである。
 上記は住戸内部の話であるが、周辺の街の環境についても同様のことが言える。生活者の視点で言えば、住まいとは街と一体なっているものであり、住宅を買うということは、その街の環境を買うということでもある。私達は、本年度「都市居住の価値を探る」という調査研究を行った。そこでは、東京都内の住民に自分が住んでいる街の「いい」「好き」と思う場所を自由に挙げてもらったのだが、非常に多く割合の人が、公園・緑地、川、神社・寺などといった地域のオープンスペースを回答した。そのような場所でくつろいだり、のびのびできたりすることが、生活の質を高めるものとして多くの人に共通して重視されていることが改めて示された。したがって、そのようなオープンスペースが豊かな街、また、そのようなところに安全に、簡単にアクセスできる街は、生活者の視点からは非常に価値が高いと言えるのだが、不動産価値としてはそこまで意味のある要因とはなり得ていない。周辺環境要因として多少の評価はされるものの、支配的な要因はやはり都心からの距離であったりする。

■生活快適指数
 そもそも、住宅はオフィスビルなどの収益物件とは役割が異なる。本来、そこで語られるべきは、生活者の感じる快適指数のようなものであって、不動産価値(転売したり、賃貸した時の価格)ではないはずである。この住まい(街)は生活快適指数が高いので不動産価値も高いのです、という構図であれば納得もできる。しかし上述した通り、現状では、不動産価値を高めることを追求しても、生活快適指数を高めることにはならないのである。
  欧米では、住まいに手を入れてより快適に住まえるようにすることにより、その価値が評価され、購入時より高く売れるという市場が成立していると聞く。築年数が長くなれば一律に価値が下がるというような現状の日本の不動産評価基準では、住まい手の、よりよくしようという意識も下がる一方であろう。そのような考えを改めるきっかけになるような、生活者側からの価値を測る総合的な生活快適指数を提案できないだろうか、前々からの私の課題である。

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「近くの広場でのびのび遊ぶことができる」「春に桜を眺めることができる」といった生活の潤いにあたる部分はなかなか不動産価値に反映されない。

(添田昌志)