2008年10月 アーカイブ

都市の階段:記憶の拠り所として

■重慶の階段
 先月、中国・重慶を訪れる。重慶は北京、上海、天津についで4番目の特別市で、揚子(ヤンツー)江と嘉陵(ジャーリン)江に挟まれた半島状の丘陵都市である。かつての重慶の様子を伝える墨絵には、急な斜面に張り付いた家屋とその間をつなぐ階段が描かれている。この絵は決して誇張ではない。というのも、この街の階段とそれを包む霧のイメージは、26年前にも訪れたことがある私のイメージと重なるからである。

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嘉陵江に面する臨江門付近を描いた墨絵と1983年に筆者が撮影した写真

 ところが、今回の重慶はその様子が一変していた。交通の障害となる階段は姿を消して、どこにでもある高層ビルと高速道路が作る現代都市の景観を呈していた。河岸側の道路面から建物に入り、エレベータで11階まで昇って外の出ると、崖上の道路面に出る。これはバリアフリーの面からは確かに大きな改善である。また車で行き来できない階段は都市の交通ネットワークを断ち切ってしまう厄介ものには違いない。しかし、一方で重慶の持っていた特異な景観的アイデンティティを喪失したことも事実である。

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今日の臨江門付近の模型写真と屹立する高層ビル群の河岸通りからの見上げ

■階段における行為
 都市の階段は、人のスムーズな移動を妨げるが、そうであるが故に通常の街路とは違う「場所」として、意識される。またそこでは、段差を利用して腰かけて留まることが出来たり、遠くの眺望が得られたりすることもある。そういった行為が、自分ひとりで、または誰かと共に行われることによって、その場所が特別な場所として記憶され、そこに愛着を込めて名前が付けられたりする。その代表例が、ローマのスペイン階段である。言わずと知れた映画「ローマの休日」で一躍世界的な観光スポットとなった所である。しかしそれほど有名ではなくとも、イタリアには数知れない魅力的な階段が街にある。山が海に迫る港湾都市ジェノバは、宮崎駿が「魔女の宅急便」で描いた街のモデルとも言われているが、そこで見つけた階段はその一例にすぎない。

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(写真左・中央)ローマのスペイン階段とその日陰で休む人々
(写真右)ジェノバの階段

 では、東京はどうであろうか?実は、東京にも多くの階段がある。「~坂」と呼ばれる中にはスロープだけでなく階段も含まれる。麻布台の雁木坂や湯島の実盛坂などがその例である。武蔵野台地の東端が東京低地と接する都心あたりでは15~25mの高低差を生み、台地は小さな谷に刻まれて様々な方向に下る坂、階段が作られた。湯島あたりでは東に下るが、「夕やけだんだん」という魅力的な名前を持つ谷中銀座に至る階段は西向きで、その名の通り夕焼けが眺められる。松本泰生氏は著書「東京の階段」(日本文芸社、2007)で126もの階段を紹介し、その楽しみ方を語っている。

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谷中銀座側から見た「夕やけだんだん」とその名前を記した碑

■外部記憶装置としての階段
 人間の記憶は、脳の中にすべて蓄えられているのではなく、生活する環境の中に部分的に埋め込まれている。一度訪れた場所への行き方をあらかじめ思い出せなくても、その途中まで行くとまわりの様子から、どちらに進めば良いかわかることがある。つまり、環境は私たちの記憶を引き出すことを助ける外部記憶装置のようなものである。都市の発展に伴って、建築が建て替えられて様子が変わっても、その地形的な特徴はあまり変わらないため、それによる記憶は保持される。しかし、重慶においては、地形的特徴までも変化し、身体的に体験される階段が姿を消すことによって、記憶を支える基盤が失われていた。イタリアの例で見たように、階段は都市の中で様々な行為と結びついて、記憶の拠り所となる可能性をもっている。東京の階段の現状は、とてもイタリアとは比べられないが、その価値を見直して少し手を加えれば、様々な行為を誘発し、記憶の拠り所となる魅力的な場所にすることができると思う。
(大野隆造)

居住地を選ぶ視点②

■「新陳代謝」がなされている街は住みやすい
 以前、地方都市の商店街活性化のプロフェッショナルから話を聞いたことがある。その人に、「活気のある商店街とは」と訊いたときに、明快な答えが返ってきて、その答えはその後ずっと私がものを見るときのひとつの視点となってくれている。彼は、「活気のある商店街とは、適度に新陳代謝がなされている商店街です」と言ったのだった。
 なるほど!そのとおり。老舗ばかりが軒を連ねていてもおそらくその商店街は硬直していくだろうし、あまりにも入れ替わりが激しければその商店街は疲弊するだろう。もちろん、入れ替わりもできないほどに活力を失って「シャッター通り」となってしまう商店街は、疲弊どころか終焉さえも近いと言える。
 この視点のいいところは、「新陳代謝」という表現なのだと思う。その商店街全体をひとつの生き物として考えたとき、商売に意欲を失っていたり、その商店街についている客層と好みが違う品揃えにこだわっていたりする商店は、いわば「老廃物」として代謝されたほうがいい。そして、新しく商店街にとって栄養となる商店が入ると、また商店街全体に活気を与えてくれる。人の体も同じだけれど、人の営みをもまたひとつの循環系として捉えると、このような明快な視点が得られるように思う。

■住宅街の「新陳代謝」
 さて、住宅街。住宅街もまた、同じように言えるのではないだろうか。「活気のある住宅街とは」「住民が暮らしやすい住宅街とは」というときに、「適度な新陳代謝がなされている街です」という視点で考えてみよう。スクラップアンドビルドと嘆かれる現在の多くの住宅地では、新陳代謝とも呼べないスピードで住宅が入れ替わっていて、活気や住民意識が育ちにくいし、街並みもまた成熟する時間がない。地方の古い住宅地のリフォーム事例などを見ていると、住民はほとんど入れ替わらない(せいぜい世代交代くらい)で、いきなりピカピカのプレファブ住宅がどーんと建っていたりするのだが、これも「新陳代謝」という目で見ると、「なにかが変だ」と見えてくる。
 気持ちのいい住宅街とは、私にとっては、全体の9割は「前からあったらしいな」と思わせる古さを備えており(厳密に築年数で計れるものでもないと思う)、1割は「新しく建て替えたか、新しい住人が来たんだな」と思わせる新しさを備えているような街だ。そしてその新しさには、「この街が好きで、ここに来たんだろう」と思わせる、「古い住宅や住人」と通底する雰囲気があるといい。付け加えれば、よい新陳代謝が行われるには、本体がまずなによりも生き生きとしていたほうがいいわけで、なかなかむずかしいことではあるのだが。

(辰巳 渚)

恵比寿は過去を未来につなげえたのか

■ヱビスガーデンプレイス
 「恵比寿」という地名は彼のヱビスビールから来ているのは有名な話だ。1901年にビール出荷専用の貨物駅としての恵比寿駅ができ、1928年に恵比寿が街の名前になったという。1970年後半から周囲が宅地化されるに連れて工場増築が課題となり、1988年に船橋に工場を移転。工場跡地は恵比寿ガーデンプレイスとして再開発され1994年にオープンした(ヱビスガーデンプレイスの歴史 http://gardenplace.jp/history/ 参照)。

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ガーデンプレイスのビール工場をイメージさせる煉瓦造の低層建物群。駅方向からは長い歩廊がタワーに向かっているのが見える。

 バブル期の計画とは言え、敷地規模が約10haに及んでおり、当時としてはかなりの大規模再開発であったといえよう。20年前の恵比寿といえば、渋谷と目黒の間に潜み、(筆者の年齢的にも)ビールというよりもラーメン屋街のイメージしかないマニアックな街であったように記憶している。そんな街が一大人気スポットに早変わりを遂げ、情報誌などで盛んに取り上げられるようになった。再開発特有の後ろめたさもなく消費者には割と好意的に受け入れられたように覚えている。
 かたや、完成時にはバブル崩壊で景気は下がる一方であったこともあり、駅周辺でサラリーマンを相手にしていた地元商店の絶望を伝える報道も盛んであった。ガーデンプレイスそのものは恵比寿駅からかなりの距離がある。それ故にスカイウォークなる歩廊でつなぎ、これも当時としては珍しかった動く歩道で駅から簡単直接に行けるようになっている。つまり地元商店街にとって、目の前をベルトコンベヤーで客が素通りするわけでどんな営業努力も無駄というわけである。今となっては、現在の賑わいを眺める限り、結局これは一時の杞憂に過ぎなかったようである。ガーデンプレイスが光り輝く「ハレ」の空間に対して、日常を引受ける影の「ケ」を地元商店街が担い、共存することで再開発された新しい街を受容するバランスを築いている。似た事例として、六本木ヒルズに客を取られると心配した麻布十番商店街がかえってヒルズの観光客の立寄りによって結果的に盛り上がったなどというケースもある。ローカルな客の取り合いよりも街自体の魅力を高めることこそが重要なのだ。

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ガーデンプレイスとは駅の逆側にある繁華街。落ち着きのないところが逆に安心できる。

■都市の選択可能性
 さて、このガーデンプレイス、高台にあるために駅からのアプローチでは周囲が眼に入らない。坂を上らせておいてサンクンガーデンに引き込むので着いた後はガーデンプレイスしか見えないディズニーランド的蛸壷構図である。煉瓦をベースとしたヨーロッパ調のファサードづくりを行っているが、これが総合設計制度の賜物なのか建物密度が低く、なにやらスカスカしており、建物が連続していくヨーロッパ市街地には見られない景観である。横浜みなとみらいエリアにも同様の構図が見られ、ある意味ジャパンオリジナルな構図といってよいかもしれない。

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人々を引き込むサンクンガーデン。

 今回、訪れたのが9月末ということもあり、暑くもなく、寒くもなく、オープンエアーのサンクンガーデンは気持ちよく、程よく人が集まっていた。東京においてはこの気持ちよさは一年でもかなり短い期間ではあるが、このサンクンガーデンは都市生活を実感できる数少ない空間である。都市生活の心地よさはその選択可能性の広さにあるのだと思う。東京は、きっと世界のどの都市よりも選択肢数は多いだろう。例えば、少し前に話題になった「ミシュラン」の掲載数を見ても、レストランの種類や数の多さは歴然であり、遊ぶ場所もたくさんある。しかし、それらは目新しさを伴う物的な場所の選択肢数であり、人間同士の関係を含んだ空間的なものではない。「ハレ」と「ケ」が紙一重で隣り合ってこそ都市の魅力は最大限に活用される。そういう観点で、実は東京では、「ハレ」と「ケ」にかなりの距離感があって、行動や活動内容の選択可能性はそんなに広くはないように思う。

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サンクンガーデンにはイベントでもあるのかと思ってしまう人の集まり。低層を徹底し、デパートやオフィスに行くのにも一旦地下に降りる。

■都市における「ハレ」と「ケ」
 そういう意味でガーデンプレイス以降の昨今の大規模再開発は、どれを見ても「ハレ」に特化した同じような指向しか見えない。当の恵比寿においてもアトレを含めた恵比寿駅周辺でもまた相変わらずのデパートの屋上興行的な有り合わせの再開発が進行中のようである。これは、「ハレ」の強引な投入である。「ケ」を担う恵比寿のもうひとつの魅力である路地的な影の部分が再開発の光に照らされて消滅するのも時間の問題であり、恵比寿の選択可能性が狭まりつつあることに不安を覚えた。どこに行くかの選択肢そのものは増えているが、そこで何をするのかの選択可能性を広げてくれないと都市は衰退しているのと変わらない。若さだけが取り柄で、より若い者が登場するとそちらに乗り換えるといった具合だ。

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何処にでもあるような客待ちタクシーが占拠した駅前広場

 一方で、都市生活の奥行きはその街がどれだけ歳を重ね方にあると言わんばかりに、どの再開発でも文化の継続がひとつの大きなテーマとなっている。幸い恵比寿はヱビスビールから生まれた街であり、生産の場から消費の場に転換するのにさほどの断絶はなく、何も残っていない江戸時代の遺構を相手にするよりも、ストレスは少なかったのかもしれない。ヨーロッパ調の流行に迎合していると思われがちなところもビール工場の雰囲気を残そうと煉瓦を基調とした外装になっているのだという言い訳もつく。しかもこの外装が功を奏してか、15年前のものとは思えないくらい綺麗に維持されている印象を受けた。
 だから良くも悪くもオープン時点で歴史が停まっているようで、このような歳を取らない街は、それはそれで見慣れることによって周囲となじんで来ている。「ハレ」の場は、人々の気分の高揚のために歳を取らないに限る。「ケ」の空間は、歳を重ねることで深みを増す。「ケ」には「ケ」の代謝のしかたがあるはずなのに、誤って「ハレ」の代謝を行おうものなら街のバランスが崩れてしまうというものである。
 恵比寿は今、「ケ」の必要な「ハレ」を確立しているのに、「ハレ」に向かう「ケ」がじわじわと増えてきている。お互いのコントラストは深まるばかりといった様相が残念である。この小さなディズニーランドを宝の山にするのか、ビールの泡としてしまうのか。ある意味、木と紙の建造物に囲まれてきた日本人に取って過去を未来へとつなぐという観点でヨーロッパの都市は理想的である。しかしながら、ヱビスガーデンプレイスの空間的魅力がそうした幻想 を定着化させるだけに留まるには惜しいポテンシャルであると思う。新しい「ハレ」の構築なんかよりも、「ケ」を再構成する再開発する手法こそ都市を過去から未来へと継承していく為に考えていく必要があると思う。

(川上正倫)

「団地再生」で再生すべきもの

 近年、「団地再生」という言葉をたびたび耳にするようになった。これは、昭和30~40年代に建てられ現在は老朽化してしまっている団地を、建て替え等によって新しく蘇らせようというものである。「日本一の大家さん」といわれるUR都市機構は、自身が管理する賃貸団地77万戸のうち、16万戸あまりをこの「団地再生」するべき対象として位置づけている。
 今回、その対象の1つになっている足立区の花畑団地を見に行った。昭和38年(1963年)から供給された全78棟2725戸の大規模な団地である。現在、ここでは再生計画(建て替え)に向けて9年間新規の入居が停止され、約1000戸が空家の状態となっている。また、居住者の65%が65歳以上で、高齢化も大きな問題となっている。そのため、やはり生活環境としては既に限界に来ているのであろうか、団地内の商業施設は閉鎖され、人気は少なく、巡回のおまわりさんばかりが目立つというかなり寂しい状況であった。再生は急務であると実感した。
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東西800mあまりにわたって伸びる花畑団地
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直線的に整然と並ぶ住棟

■再生の手法 
 方々で言われていることだが、この時代の団地はそのゆとりある配置計画に特徴がある。日照に配慮して隣棟との間隔は非常に広いものとなっている。このゆとり、つまり、余裕ある容積率を活かして、床(階数)を増やすというのが、これまでに見られる一般的な再生(建て替え)手法である。増えた床に新しい入居者を募ることによって、建て替えの事業費用を捻出しようとするもので、団地に限らず、再開発では常識的に使われる手法である。また、土地の一部を民間に切り売りし費用を捻出することもある。この団地の周辺は、民間のマンションも多く建設されており、土地の買い手や新しい住戸の借り手はいくらでも現れそうである。まだ詳細な計画は明らかにはなっていないが、この団地でも同様の手法が採られるものと思われる。
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非常にゆとりのある住棟間のスペース

 しかし、このような手法で「再生」された団地は、良くも悪くもその辺でよく見る「普通のマンション」になってしまっている。高層化することで、5階建ての低層住棟ならではのヒューマンスケール感が失われ、また、車に配慮して駐車場や進入路を整備することで、緑と土のオープンスペースが失われてしまっている。
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高層化によって再生された団地(埼玉県松原団地)

■団地ならではの価値
 私は、団地とは、その時代を超えた「新しい住まいの価値観」を示すものであったと考える。昭和30年代当時の団地は、洋式のダイニングキッチンや水洗トイレなどを取り入れたモダンで革新的な住宅であり、なによりも都市における新しい居住形態を示したものであった。それが50年近い時を経て、いつしか周辺のマンションに先を越されたため、今慌ててそこに追いつこうとしているように見える。しかし、目指すべきは「現在の標準」でいいのだろうか。単に現在に追いついただけでは、またすぐに取り残されてしまうことは目に見えているのではないだろうか。
 そもそも、今から50年後には日本の人口は現在の約6割の7500万人程度になると予測されている。そのような時代を見据えた時に、床を増やすことを前提とした計画自体に危機感を感じてしまう。採るべきは50年先にも「持続可能な」手法であって、現在の建て替え時の資金捻出に汲々とすることではないと思われる。50年先にようやく元が取れるというぐらいな長期的な視点に立って、50年先にもこの団地に住みたいと思わせるための、団地にしかない「新しい住まいの価値観」を作り出して欲しい、というのは、素人の浅はかな考えだろうか?
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窓一面に広がる緑のスペースは50年先も変わらぬ価値を提供し得ないだろうか

(添田昌志)

六本木の価値をはかる(5)

■大きいことと小さいこと。古いこと新しいこと。
屋敷町であったことを思わせる古くて長い塀があちこちで見られる。そのまま学校になっていたり、宿泊施設、大使館などに敷地が転用されていてその区割りが残っている。これらは、敷地が大きくしかも建物も低いので近寄っても建物が見えないようなものも多い。このような塀に憧れて狭い敷地にも塀を廻らせてしまうのだろうか。
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かたや、町人の街を思わせる不思議な街区もあちこちに残っている。檜町の一角には、道幅が 90センチほどしかない路地が碁盤の目のように配されたエリアがある。日当りは悪そうではあったが、手入れがかなりきちんとされていて不健康な匂いは全くしなかった。このようなエリアが建築基準法の下で平均化されてしまうのはせつない。
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麻布台の一角には、アールヌーヴォー調の長屋もある。このあたりは、このような洋館がたくさん建っていたという。今では 2軒を残すのみだが、この地域の往時からの文化への関心を示すものではなかろうか。
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楽園と庭園
この界隈には立派な公園が多い。門などがそのまま残されていてかつて大きなお屋敷の庭であったことを想像させる。長らく手つかずだったこのエリアが再開発の対象になったのが、バブルを過ぎた安定した豊穣期であったおかげでか、再開発の足下も決して派手な緑化がされているわけではない。六本木を楽園化するもうひとつの要素が、これらの公園や緑地であるようにも思えた。ヒルズは毛利庭園を再生整備し、ミッドタウンはなんと高層棟そのものが日本庭園の石をイメージして配置されているという。
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■坂と崖と橋と
散策をしていて特に感じるのが坂の多さであろう。この地形の起伏の激しさも、建物がよりばらばらと乱立しているように見せる。以前考察した渋谷はひとつの谷に向かってすり鉢上になっていたが、ここでは細かい小山がいくつもあって、ぱっと向こう側が開けるような風景に行き当たる。饂飩坂、芋洗坂、寄席坂など、むかしの文化に由来する名前も往時を想像させて散策を楽しくさせている。谷が多いせいか寺と墓場もかなり多く見かける。それがまたひとつの大きな空地をつくりだし、その向こう側に都市の立面を見せてくれる。俗世とそのむこうにある楽園。
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複雑な地形をより複雑にしているのが、この高架である。これによって建物では作り出せないおおきなスケールでの水平的な連続感をつくりだしている。これは新たな地平線でもある。
建物間を結ぶ立体歩廊や橋も動線上でも立体的な地平をつくっており、自然の起伏によってそれらがさらに立体的に目につくことで、更なる起伏を生み出しているのがおもしろい。
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 六本木は思ったより「散歩」に適した街であるとも言える。夜にこそその価値があるという人もいるだろうが、生活空間としてかなり質が高いエリアであるといえる。繁華街というところで治安は多少劣るとしても、至るところに古い都市の遺産を垣間みることができ、気軽に休憩できる気持ちよい公園があちこちに点在する。坂や階段も多く、かなり起伏が激しい地形と乱立する建物群によって様々な画角で街並が切り取られ、変化に富んだ飽きない眺めを提供してくれる。その眺めに激しく入り込んでくる再開発によって生まれたタワービルの存在も、新宿や丸ノ内などのそれとは一線を画しており、かつて戦国時代の「城」よろしく支配的な視線で見下ろされている感すらある。
 そんな「城」たちも、方向音痴のくせに地図を持ち歩かない自分にとってはよい指標となり、どこにいるかわからないながらも大きく方向を逸れることなく歩くことができた。その反面、歩いた道筋や象徴的なそれらのタワービル以外の建物がまったく記憶に残らない。きっと目的地があったらたどり着くのにえらい時間を食ったことだろう。しかしながらその地形さながらに起伏の激しい都市空間であり、その都市の価値を理解するのはかなり難しい街であると感じた。体系だった軸を見出すには、もう少し議論が必要かもしれない。

(川上正倫)

六本木の価値をはかる(4)

■六本木にみる聖域と楽園のせめぎ合いによる街としての価値
六本木は自分の中では、割とつきあいが長い街だとは思うのだが、実は全く実態を把握できていない街のひとつである。昼間に歩き回っているだけでも、表装に表れてこない別の顔の存在があるに違いない空気だけは感じられる。しかし、夜に訪れたとしても表装は変われども、その真の顔に近づいている感覚は得られない。仕事場であり遊び場にしてこなかっただけということもあろうが、この街の空間的な特徴を説明しようにも言葉に詰まってしまう。

六本木に古くから住んでおり、本性を知り尽くしている方の言葉をお借りすれば、六本木は観光客や一見さんには近寄りがたい都市の「聖域」なのである。それもそんなに歴史がある聖域ではない。始まりは世間から白い目でみられた遊び人たちの欧米への憧れを実現する場に過ぎず、憧れへのあくなき探究が場に文化を呼び込み遊び人たちの「楽園」となった。世間の白い目から逃れるように楽園は表装を捨てて姿を隠した。世間の目から隠れた楽園は、いつしか経済の成長とともに育まれた“文化”という高い垣根をつくり鎖国をはじめた。闇の世界は、表装を持たないから空間よりも人の縁が水先案内人として重要になる。時代は変わって、世間の目はその文化や人の縁によって囲まれた楽園に憧れはじめる。しかしその時既に楽園は、“文化”と縁の薄い一般人の手の届かぬ聖域になったのだ、とするのは強引すぎるだろうか。

ところが、昨今の度重なる再開発は一般人の楽園を聖域に乱入させた。聖域に憧れていた人々が大量に流れ込んでいる。彼らは、人の縁でしか得られないはずの「情報」をもっており、無条件開国を要求している。ネットやタウン誌によって裸にされ、今や、かつては近づくことすら憚っていた人々から文字通り見下ろされるエリアとなっている。
しかし、本当に聖域は完全に開国されたのだろうか。エセ楽園に読み替えられ、テーマパークとしての表装を街の真の顔として公開しているだけのように見受けられる。街自体もそれに併せて化粧なおしし始めているようにも見える。果たして聖域は一般人の楽園と共存できるのか。そんな状況を改めて確かめるつもりで六本木エリアを練り歩いてみた。

■夜の街の昼の顔
ドンキホーテこそ頂部にレールを載せているが昼の顔は概して大人しい印象。チェーン店の流入により多少わかりやすくなってきている。ガイドブックを片手にヒルズやミッドタウンから流入してくる人々からすると、「六本木大したことないじゃん」の印象が強いのではなかろうか。ハワイのワイキキに行って、「なんだきれいな海ってこんなもんか」と思っているのに近いか。きれいな海には安易には近づけないのだ。外来者は目立つものの、午前中からお昼時にかけての繁華街の姿は、渋谷・銀座などとは比較にならないくらい人が少ない。南北線や大江戸線によって陸の孤島からは解放され、再開発によって門戸は開かれたが、まだ夜の限定的なアクティビティに頼った(しかもそれで充分成立つ)R指定の街のようだ。
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■振り返ると奴がいる!
かなりしつこくあちこちからヒルズ、ミッドタウン、泉ガーデンのひょっこり覘く姿を意識してみた。城下町を見守る天守閣のように、どこからでもどれかは見える。見えるということによって逆にその領域下に取り込まれているような感覚になった。ヒルズが見えていたところからミッドタウンが見えるところに移ると違う国に来たかのように。
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そんな中、東京タワーが見えると、ちょっと懐かしい仲間を見つけて「久しぶり!」と声をかけたい気持ちになった。
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(川上正倫)