ご近所づきあいと大家族

■ご近所づきあいに求めるもの
 地域コミュニティの必要性は、いろいろな観点から言われていると思う。防犯のようにわかりやすい必要性から、人と人とのふれあいがある温かい暮らし方といった情緒的な必要性まで。
 私はといえば、たぶんごく一般的な感覚の持ち主で、一人暮らしや夫婦二人暮らしのときには、地域とのつながりを求めてはいなかった。せいぜい大家さんと仲よくしていれば事足りたのであって、誰かに助けてほしいときは身内や友だちを呼べばよかったのだ。
 そして、子どもができて、地域のありがたさを始めて知った。お隣さんに子どもがいたこともあり、子どもを預けあったりするのが、ほんとうに助かった。地元の公立小学校に子どもを入れたこともあり、商店街で知り合いに会うのも、嬉しい経験だった。
 ご近所づきあいはいいものだなあ、地域の小学校というのはコミュニティの中心となりうるなあ、というのが実感ではある。
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 ただ、つきつめて考えると、ほんとうにご近所づきあいがそんなにいいものなのか、小学校を中心としたコミュニティが地域の核となるのか、疑問にも思えてくる。
 そもそも、人づきあいはめんどうくさいもの。それに、友だち関係のような温かさをご近所一般に求めるのは、話が違う。
 助け合いのために必要とは言うけれど、地震などの緊急災害時の助け合い精神については、多くの事例が示しているように、私たちの社会はいまのままでじゅうぶんだと思う。それではふだんのささやかな助け合いのために必要かというと、日常的な助け合いには「他人様」は巻き込みたくないというのが、一生活者としての私の本音だ。つまり、子どもが熱を出したときなどでも、ほんとうに頼りになるのは身内か親しい友人であって、「ご近所」ではない、ということ。
 ほんとうにほしいのは、親しいご近所づきあいではない気がする。同じ家のなかに、大人が夫婦のほかにあと数人、ほしい。もちろん子どもも。いわゆる3世代同居であれ、違うかたちの大家族であれ。それで、多くのことは解決しそうだ。
 近所に住む他人とは、顔をあわせれば「こんにちは、風邪が流行ってるけど、お子さんは元気?」とにこやかに声が交わせて、ゴミを出すときに「近所が見ているから」と気にすることできちんと出せる程度がいい。長期間留守にするときに、「留守にしますから」と一声かけておけばほっておいてくれる程度がいい。
 地域に血縁関係はほとんどなく、他人同士が寄せ集まっている住まい方は、今後もそれほど変わらないように思う。いくつかの家族が集まって暮らすコミュニティハウスのような方向性ももちろん可能性が高いけれど、私はやはり、ひとつの大きな家族でひとつの家に住む暮らし方の方向性を考えたいのだ。
                    
■祭りの意味
 最後に。私はこの2月に秋田に行って、なまはげのお祭りを見て来た。このところ、暮らしの中に神や祈りがあることの(宗教的な意味ではなく、暮らしの豊かさ、暮らしの軸としての)価値を考えているせいもあるからか、お祭りが地域をつなぐ力にあらためて感心した。それは、「私は部外者だ」という物足りなさを強く感じたためもあるかもしれない。
 私の住む茅ヶ崎にも地域ぐるみの浜降祭という大きな祭りがある。ただ、私が住んでいる町はかつては松林だった地域なので、伝統ある神社がなく、祭りに参加しにくくも感じている。
 小さな物ひとつにも魂を感じ取る私たち日本人が、失ってしまった風土(それは八百万の神々を意味する)への帰属心をどう取り戻すのか。コミュニティの問題は、じつはそんなこととつながっている気がする。

(辰巳 渚)