252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持(ドイツ連邦共和国)

252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持

252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持
252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持
252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持

252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持
252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持
252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持

ストーリー:

 ドイツのルール工業地帯はまさに「欧州の工場」という形容がふさわしい一大工業地域であった。その中心都市であるエッセンには、ドイツを代表する重工業企業、クルップの本社が立地していた。クルップ社は1900年には約4万5000人の労働者を抱えていたこと、さらには福利厚生をしっかりと提供することも重要な企業理念としていた。そのような中、労働者を対象とした社宅として20世紀初頭につくられたのが、エッセンの南東にあるマーガレーテンヘーエである。当時、イギリス人のエベネザー・ハワードが提唱した「田園都市」というコンセプトは世界的に影響を及ぼしていた。マーガレーテンヘーエも「田園都市」の影響を色濃く受け、ドレスデン郊外のヘレラウと並ぶドイツの田園都市の事例として紹介されている。
 マーガレーテンヘーエの土地は、1906年に鋼鉄王フリードリッヒ・クルップの妻であるマーガレーテが、娘のバーサの結婚式の記念に寄附したものである。街の建築は1909年から1935年にかけて、幾つかのステージに分けて行われた。それはエッセンを中心に活躍した建築家、ゲオルグ・メッツェンドルフ(1874-1934)によって設計された。建築する際には、いかなる建築規制からも適応除外となることを政府が法律的に認めた。これは、ヘレラウでもなされたことであるが、田園都市という新しい人類の理念を具体化させることを法律より優先したのである。そこには、ドイツ的なプラグマティックな考えがうかがえる。また、メッツェンドルフは、「ロマンチックなファサードを有する社会住宅」をここにつくりたいと考え、「前庭を持つ小さな家」を設計した。さらには、住民はその当時の最先端の住環境を享受するべきであるとの考えから、風呂、水洗トイレ、集中暖房などが整備された。
 マーガレーテンヘーエは開発時期によって戦前の一期と戦後の二期とに分けられるのだが、一期においては、住宅の高さは二階に制限された。そして、統一的な外観の印象を与えるが、同じ意匠の家は一つもないように工夫された。張り出し窓、生垣、切妻、漆喰などを微妙に違えることで、統一感の中の多様性のようなものを演出したのである。その後、ベルギーの建築家ルシアン・クロールやオランダのアムステルダムの郊外住宅地ジャワ・アイランドで実践したようなことを、既に20世紀前半で行っていたのである。最初の建物が完成したのは1910年。第二次世界大戦時には爆撃によってその多くが焼失するが、元の姿を復元するように再建築した。1948年には独立した行政区になる。一期の南には、まだ開発未完の地区があったのだが、その開発は1962年から1966年、そして1971年から1980年にかけて行われた。これらの地区の建物は初期のものと比べると意匠的にも劣り、特に1970年代には中層の集合住宅を建ててしまい、マーガレーテンヘーエの瀟洒な雰囲気を台無しにしている。これら戦後に開発された地区の社会的課題、景観的課題を解決するためのリノベーション・プログラムが1987年から展開している。この年はちょうど一期地区が歴史地区として保全指定された年であり、マーガレーテンヘーエという街の将来像を決定づけるうえで極めて重要な分岐点となった年である。
 現在、115ヘクタールの敷地はマーガレーテ・クルップ基金によって管理運営がなされている。建物棟数は935で住戸数は3,092である。敷地の半分に近い50ヘクタールは建築物を一切建てない森として保全することにした。

キーワード:

田園都市,アイデンティティ,歴史保全

マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持の基本情報:

  • 国/地域:ドイツ連邦共和国
  • 州/県:ノルトライン・ヴェストファーレン州
  • 市町村:エッセン市
  • 事業主体:マーガレーテ・クルップ基金
  • 事業主体の分類:民間
  • デザイナー、プランナー:ゲオルグ・メッツェンドルフ(Georg Metzendorf)
  • 開業年:1909

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 エッセンの中央駅から地下鉄という名の路面電車17号線に乗って5駅目のホーヘンヘーエで降りる。終点の駅名がマーガレーテンヘーエ駅なので、最後まで行きたい気持ちになるが、ホーヘンヘーエ駅こそがマーガレーテンヘーエのコミュニティの玄関口に当たる。玄関口には大きな門を持つ集合住宅がどんと構えている。この門をくぐり、緩やかな坂道を上っていく。道路幅は狭い。しばらく歩くと広場に出る。50メートル×50メートルくらいの正方形の広場で、今日は市場が立っていたようである。私は午後に訪れたので、もう大半が店じまいをしていた。この広場に面してホテルやスーパーマーケットが建っている。スーパーマーケットはドイツの大チェーンであるEDKA(エデカ)。しかし、EDKAの派手目な青色のロゴの色が、この建物に合わせて金色になっていた。こういう気配りが、この町の格を上げているのだろう。多くの家々は、花などで窓や門を綺麗に飾っていた。ここの住民がこの町に愛着を感じているのが分かる。
 ドイツには結構、たくさん田園都市がつくられている。ドレスデンのヘレラウ、コットブス周辺のマーガなどだが、それらと比べても規模、そして、現在においてもしっかりと居住され、その原型が維持されていることは評価できる。第二次世界大戦において破壊されたにも関わらず、それを元のように再現させたということは、空間の継続性の価値を重要視するドイツらしい試みである。さらに、戦後、そのコンテクストに合わない開発をしてしまったところをむしろリノベーションするという考え方は、歴史的文脈の保存事例として大いに参考になる。
 それにしても、 エベネザー・ハワードが『明日の田園都市』を出版したのが1898年である。それから8年後にヨーロッパ大陸において同じコンセプトの住宅を開発しようという動きがあったのは、いかにハワードの田園都市というコンセプトが大きな社会的影響を及ぼしたかということを知らしめる。
 この100ヘクタールを越える住宅開発をなぜ、「都市の鍼治療」の事例として紹介するのか。それは、その歴史的コンテクストを重視し、20世紀ではあっても戦前の建物をしっかりと保全することに成功しているからだ。戦災を受けた後にそれを復元するという取り組みをしただけでなく、戦前の住宅地と異なるコンテクストで1960年代以降つくってしまった建物を、そのコンテクストを維持するために修景を図ったりしていることも、ちょっと驚きである。ヨーロッパの町並みに風格や洗練された印象を覚えるのは、このような街のアイデンティティの維持をしっかりと戦略的に遂行しているからである、ということをマーガレテンへーエは我々に伝えてくれる。そのアプローチは「鍼治療」的なツボを突いている。
 そして、そのような試みは、同潤会のアパート群、前川國男設計の阿佐ヶ谷団地などを壊してしまい、戦災を受けない戦前の建物を平気で壊してしまっている日本人にとっては、非常に心が痛くなる事例でもある。この事例から我々が学ぶ点は多い。

【参考ウェブサイト】
ルール地方の観光ウェブサイト
https://www.ruhr-tourismus.de/en/ruhrindustrialculture/industrial-heritage-trail/company-towns-in-the-ruhr-valley/margarethenhoehe-garden-city.html
マーガレテンへーエ・クルップ基金のウェブサイト
https://www.margarethe-krupp-stiftung.de/die-margarethenhoehe/?lang=en

類似事例:

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313 ブウキエンニツァ通りのリデザイン
・ レーマー広場、フランクフルト(ドイツ)
・ 王宮広場、ワルシャワ(ポーランド)
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・ ローテンブルク・オプ・デア・タウバー旧市街、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(ドイツ)