工事中を魅せること 「工事中景」中継

川上 正倫

○ 都市における建設現場

 自宅を出て職場までの道すがら、数えてみたら実に大小含めて12件の建設現場があった。電車移動を除いたわずか徒歩15分弱の距離に、である。数もさることながら、それだけの存在が日常的に無意識化していることに驚いた。決して工事現場がある景観をよしとしているわけではなく、未完成を前提に関知しなくてよい存在として許容している節がある。しかも周囲の建物の振る舞いとは異なる異物であり、また現場を囲う「仮囲い」どうしでの違いがあまりない故に視覚的には結構目立っているのにも関わらず意識しないようにしている。これは、きっと私だけのことではないはずである。しかも、それは街並に対する無関心へと直結する意識の抜き方であり、景観を考える上では負の構図をもたらすことは間違いない。

 建設現場の都市における位置づけを考えてみると、都市発展の象徴でありながら、粉塵、騒音、安全不安など都市生活にとってはネガティブなものに違いない。それらから機能的に都市生活を保護するモノが、建物の代わりに工事期間中その場に陣取り人々の目に触れることになる、仮囲いということになる。現場そのものは時々刻々変化しているわけであるが、仮囲いが外されて建物の外観が見えるようになるまで、仮囲いがその場の外観を担うわけである。つまり、工事の段階によって多少の差はあるものの一般の人の目に触れる建設現場の「景観」=「仮囲いの立姿」ということになる。都市景観の要素として一時的であるにせよ、いつもどこかしらに存在するという意味では、非常に重要な景観要素であるといえる。しかし、建設現場も我々の無意識を逆手にとって手を抜いているように思えてしまうような扱いが多い。


○ 建設現場は都市景観としてメディア化される

 建設現場を巡る問題はなにも東京に限ったことではなく、世界各地で共通する。そして数の多さや仮囲いで囲われる様もそう変わらない。海外の観光地を訪れ、ガイドブック記載の歴史建造物を回れば、誰もがそのうちの1つや2つは修復工事中の仮囲いに包まれているのを見てがっかりした経験を持っているであろう。「観光」という目的に対する背反意識が強いせいか、公的な景観に対する意識が高いからなのか、仮囲いに建物の工事完了時の姿をプリントしたものを用いたりしている例もよく見かける。都市にとっては、元々の建物そのものが非常に重要な景観要素となっている為に、建設現場であることの最大限のエクスキューズを示しているというところだろうか。いずれにしても、見られているという自意識があることがわかる。

 また、これだけの数があるのだから意識するようにすると街への関心を高めることが期待できる。見られている意識が強ければ、商目的に利用することも発想できる。有名な商業施設が期間限定の広告要素として用いていたり、期間限定アート作品として製作されたりしていたりとメディアとして考えられており、積極的にデザイン対象として扱っている。これらの積極性は、建設現場とは直接関係ないが、クリスト夫妻による「ポン・ヌフの梱包(1985)」や「梱包されたライヒ・スターク(国会議事堂)(1995)」などの景観アートを彷彿させる。きっとある日突然起こった変化による期待感や新鮮なショックが梱包=仮囲いによってメディア化されるのである。


○ 建設現場はコミュニケーションツールとなる

 さて、今回の韓さんのお話で印象的であったのは、建設現場をはじめとする都市の中で見ないことにしていたものへの関心を高める役割をデザインが担っているということであった。ステュディオ・ハン・デザインの「工事中景」活動はまさにデザインによる仮囲いのメディア化行為の一端を担うものでありながら、むしろ建設現場をコミュニケーションツールとして開発する活動ともいえるという点で非常に発展的な取り組みとなっていると評価できる。

 「サザンビートプロジェクト」は、先の海外事例などと比較しても、よりインタラクティブ性の高いメディアとして扱われている。仮囲いにグラフィックを付加して見た目をよくしているなどという次元を超えて市民のコミュニュケーションの場となっており、デザインを媒介として公の「場」の発見を市民に促した好例といえる。
 昨今では東京スカイツリーの建設現場見学が人気だとか。そのようなわかりやすい未来への過程体験もさることながら、建設現場の都市への関わり方にはまだまだ可能性がありそうである。

 残念ながら「サザンビートプロジェクト」は、三年間の継続後、様々な展開が見え始めていた矢先、工事完了を待たずして中止となってしまったという。韓さんの「もしこれがパリであれば、…(インタビュー録参照)」という話のように、中止に対する市民の態度は結果として、市民がそのような「場」に対する権利主張を行うことがまだ定着していないことを顕在化することとなった。「工事中景」の試みは、工事による駅前の公的な「場」の阻害に対する補償としても十分に意義のあることであったと思うが、市民の公の「場」に対する意識の啓発にも、このようなデザイン行為が益々重要であることを示しているように感じる。