工事中を魅せること 韓亜由美氏インタビュー(5)

◇本来の意味での「パブリックな」スペース
 日本人はパブリックスペースに関しての意識が希薄だと思うのですが、ヨーロッパなどでは街路や広場など公共の場所に対して「これは自分たち市民のものだ、国や行政であっても勝手にはさせないぞ」という権利意識、言い換えれば「シビックプライド」があります。たとえば、パリのエッフェル塔や国立美術館にしても、過去の建設時に市民の間で賛成・反対で二分するほどの議論がありました。ヨーロッパのように、何かあれば人々が広場に集まって議論をするということが、日本ではなかなか根付かなかった。ただ、新宿にはそういう歴史がありますよね、西口広場で学生が集まってフォークソングの反戦集会を開いたような。その時は結局、警察が鎮圧に乗り出してきて「ここは広場ではない、通路だから立ち止まってはいけない、集会の自由は認められない」ということになってしまったんですけれど。

 みんな、そういう本来の意味でのパブリックスペースに飢えているという感じを持ちました。そこに行って誰かに出会ったり、共感する隣の人と自由に話をしたりしてもいいという場が、巨大な東京の中、どこに行っていいか知らない。もちろん公園として花壇やベンチがある場所はありますが、都市の重要な一部をなすようなパブリックスペースがなかった。そういうものが求められていたということを、サザンビートの仕事で、工事現場と向き合うことを通して感じました。

◇「お上のやること」に物申す権利
 いろいろな大学でサザンビートの話をしたりすると、学生が寄ってきて、「見ました!あの時のあれだったんですね!」と、すごく熱く語ってくれたりするんですよ。体験した人の記憶には本当に強く残っているようです。仮設物だからあっという間に撤去されたけど、実は、実際に触れた人々の記憶の中に「時代の出来事」として、少なからず影響を及ぼし続けたのだなあ、と思いました。ただ、残念なのは、道路行政に対する社会的な風当たり等で自粛ムードが高まり、新宿サザンビートプロジェクトも、2016年の工事完了を待たずに、突然途中で終わることになりました。

 もしこれがパリであれば、市民から「どういう理由で止めるんだ?」というクレームが来たに違いありません。でも東京では来なかった。「もう終わっちゃったんですか?」くらいの問い合わせは来たかもしれませんが「終わりました」と言えば「ああそうですか」となるでしょう。そもそも「工事中景」自体、前例も枠も無いので無理もありませんが。

 まだ、日本の都市市民の意識としては、「公共の権利」というところまで行っていないんです。悪かったものを良くしてくれたから嬉しいと思うことはあっても、それが「当然求めてもいいものだ」という意識はない。私は求めてもいいと思うんですけれどね。公共のことは「お上のやることだから」というアタマがあって、それに対して、自分たちが何か言う権利があるとは、誰も思っていない。私は以前から土木系の仕事、たとえば高速道路のジャンクションの景観などを手掛けていましたが、そういう土木構造物の足下や裏側の空間などについても同じです。「市民として当然、公共物に対して何か言える」とはみんな思っていないんです。だからこの「工事中景」も広まりそうでなかなか広まらない。

 それでも「工事中景」が形になったのは、クライアントが国土交通省という「国=行政」だったからですね。民間では、意義をなんとなく理解していたとしても、そこまでのお金や労力を割くことは難しいのかもしれません。

 「誰がそのようにお金と時間をかけて、特定のターゲットではなくパブリックに対して価値を還元できるのか」と考えた時、現状ではやはり行政系しかない、というところが課題でしょう。これを解決するためには、たとえば国や地方、公共団体などが「工事期間中、迷惑をかけている人たちに対して、工事費の内、これこれの比率の予算で、必ず価値を還元すること」のような合意事項を作り、民間にも実行させる。そういうことが一般化すれば「工事中景」も広まり、都市のパブリックスペースももう少し豊かになるのでしょうが、残念ながらまだそこまでは行っていません。そうなればいいなあ、と思っています。

―「公共」に対する市民の意識を変えていくことが重要ですね。そのためにデザインが持つ力、可能性については、どのようにお考えでしょうか?

◇何かを見えるようにして、何かを伝えていく
 デザインの力はすごく大きいと思います。だから、広告などの花形分野で活躍している有名なデザイナーも、もっとパブリックなところ、自分たちの生活基盤に関わるところにそのデザイン力やセンスを投入してほしい。「パブリックをやることがかっこいい」と、ブルータスあたりで特集を組んだりしたら一気に変わるかもしれません(笑)もともと今の若い世代は「デザイン」という言葉が普通にある世界に生まれ育っていて、それに対しての違和感がまったく無く、感度が高いので、あとはもう、きっかけだと思うんですよね。そういう時が来るのは時間の問題だと信じているんです。

 「自分たちのまちに誇りを持つ」という視点で活動しているシビックプライド研究会が、横浜で「まちづくり」の連続ワークショップを開いたことがありました。参加者が自分たちで勝手に横浜のどこかのまちを選んでリサーチをし、「このまちをこういう風に売り出そう」とプロモーションを考える、というワークショップだったようですが、やってみるとこれが面白くて、みんなすごく夢中になってやったようです。その面白さに気づけば、一般の人でも絶対はまると思います。「我がまち」を売り込むのはすごく楽しいし嬉しいし、社会に関わっている感じがしますしね。

 だから、うまいやり方さえ用意すれば、デザインをきっかけにして一般の人たちが積極的にパブリックに参加してくるようになると思います。こちらが最初のきっかけを作ったあと、主導権が一般側に移動していくかもしれない。そうしたら今度はクリエイティブはサブに回り、そこから出て来るいろいろな要望などに応える形でやっていく、そういうことができるといいですね。その意味でも、デザインの果たす役割とは「触媒」のようなものだと考えています。できたものがデザイナーの「作品」だとはあまり思っていません。

 私がデザイナーとしてかかわってきたのは、公共空間という、実際の面積やボリュームを占めるところです。これには非常に強い求心力があり、影響力があるのは間違いありません。媒体を使ったキャンペーンというのももちろんあるのでしょうが、やはり人が歩いて、見て、感じて、というように「場を占める」デザインにはすごく責任と影響力がある。

 今まで行政がよく工事現場などでやってきたのは、たとえば子供たちに仮囲い上に絵を描かせたりするようなことです。悪いとは言いませんが安易で言いわけ的な、デザインとはまったく関係ない世界です。そうではなく、日本橋にしても新宿にしても、その場所が求めている独自の文脈のようなものを大事にして、それを汲み取って可視化していくこと。それがデザインの役割だと思います。何かをはっきり見えるようにして、何かを伝えていく。そういう部分では、デザインの果たす力は本当に大きいと実感してます。「工事中景」は、デザイナーが職能として力を発揮できる場所だと思っています。