変えるものと変えないことと 山口勝之氏インタビュー(1)

山口勝之氏プロフィール
(株)ユーディーエー 建築家・都市計画家
1981年東京工業大学工学部建築学科卒業。
都市からプロダクトまで環境全般のデザインをフィールドとする。お台場「デックス東京ビーチ」の建築基本計画及び商業環境デザインほか、活動は多岐にわたる。一級建築士、日本建築家協会登録建築家、技術士(都市・地方計画)。


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インタビュー風景(山口勝之氏)


― 野毛商店街の街路整備にかかわった経緯についてお聞かせください。

◇危機感が街の整備を促す
 そもそものきっかけは1990年半ばに、東急東横線が桜木町に来なくなり、みなとみらいの方に地下鉄、地下化する計画が出たことが発端です。みなとみらい地区も徐々に整備され、若い人たちはみんなみなとみらいの方に行ってしまうという状況が見えてきました。この計画を始めたのが1997年なのですが、その頃から、今から手を打たないとまずいという雰囲気になっていました。これは横浜市が音頭を取ったのですが、市が補助金を出すので、今のうちに野毛の街として何か対策を考えたほうがいいのではないかと街に対して発信をしました。それと同時にコンサルタントを付けて、勉強会やりなさいということで始まりました。我々が縁あってそこのコンサルタントをやることになったのです。

◇まずは勉強することから
 1996年の時点では、地元の人たちにとって、それまで街づくりということを考えたこともないし、特別危機感も何も持っていなかったのが、いきなり「危ないから何か考えるように」と言われても、どこから手を付けていいのか分からない状況でした。そこで、まず勉強会を始めることにして、他の街を視察して、そもそも街づくりとはこういうものだとか、お客さんをどう考えるのか、などこ今後のあり方などについて1年間かけて話し合いました。特にハードのことは何も触れていません。勉強会の主体はその商店街の人たちで、我々が講師で参加をして、いろいろ話し合いました。それに対して市の方も横にいて、アドバイスをするというだけでした。
勉強会の参加者は、横浜市の呼びかけに対して手を挙げたのが、4通り、街で5人でしたので、その4つの通りで、当初は定期的に集まるのが各通り、1人か2人でした。まぁやるぞ、と言ってもやはりやる気のある人は限られていて、その通りの会長さんなどは一生懸命でしたが、他の人はまぁそれほど関心無いというか、そんな感じでしたね。

― 裏を返すと、実情はそれほど困っていない、という認識が強かったのでしょうか。

◇危機感より意識の高さ
 当初はそうだったと思います。横浜市の働きかけがあって行っているというような感じでしたね。この整備事業というのは、横浜市が補助金の25%を出し、それに合わせて神奈川県も25%出すんですね。残りの50%のうちの9割は別の財源があって、実質地元の人たちの負担額は5%しかないという、極めて良い条件なのですが、手を挙げる人がそれほど多くなかったということは、今のままで何も問題がないと思っていた人が大多数だったんだと思います。野毛は、他の商店街に比べたらまだまだ来客数はあるし、深刻ではないんですよね。実際にこの勉強会に参加する人というのは、むしろ意識が高い人なので、お店もきちんと経営されている方達なんです。回を重ねるごとに、だんだん言葉が通じるようになり、最終的に4つの通りを整備するのに10年以上かかったのですが、十何年の付き合いなって、最後はほとんど友達みたいになりました。


― 1年目は勉強会を通じて、コンセンサスを図っていく感じだったのですね。

◇1年目の収穫 -問題の把握
 本来の目的は、将来沈みゆくだろう商店街をどう活性化させるかということなので、彼らの意識を高めて、彼らが我々のいなくなった後、どうやって街づくりを自分達でやれるのかということを見つけなければいけないですよね。当初はそれに向かって、勉強会をできるだけやりました。私はそれほど参加していないんです。我々はデザインをする立場、ハード側の立場なので、その頃一緒に仕事をしていた商業関係のプランナーのような人に入ってもらって、ワークショップのネタや話題を出してもらったりしていました。まず四つの通りで、まち全体としてどうするんだという話をしました。1年目は特に結論めいたものはなく、何となく問題が見えてきたかなという感じでした。

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来月号では、具体的に実際のデザインを提案する実施計画や、このような整備事業に建築家が関わる意義についてお話を伺っていきます。

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