高層マンションに住む

■高層の意味
 中南米のある都市はあまりに高地にあるため、低いところに上のクラスの人間が住み、高いところに低い階層の人間が住むという。
 そんな都市の様子をテレビで見たのはまだ20代のころだったけれど、なにかぐらっとするような価値観の転換を覚えた記憶がある。
 ちょっと違うけれど、エホバの神を由来とする宗教では「地獄」は火のイメージだが、それは砂漠という灼熱の地で生まれた宗教だからだ、という。寒い地域の宗教では、地獄は氷のイメージなのだ。では、仏教には熱い地獄と寒い地獄があるけれど、あれはどういう経緯なのか。仏教ではいくつかの民間信仰を取り込んでいったというが、その過程で地獄のかたちもいろいろになっていったのか。人は、どちらの地獄にも恐怖を覚えられるものなのか。
 考えると面白いのだが、話を「住まい」のことに戻そう。高層マンションだ。
 あれが「いいもの」という感覚は、なにに由来するのだろう。
 私たちの文化では、高いところが権力に結びつくからなのか。でも、1965年生まれの私でも、東京タワーや新宿の高層ビル群は見慣れたなかで育った。上から見下ろす街や人はちっぽけに見えるからおもしろかったけど、それだけのことだった。10階建てのマンションも、珍しくはなかった。団地の5階に住む友だちには、「階段の上り下りが大変だね」と同情した。
 高いところはあたりまえにあったから、上から見下ろされても「私は下?」と嫌な感じなんてしない。 
 それとも、ホテルのイメージなのか。もともとホテルでは最上階がスイートだったりして、上に行くほどいい部屋という場合が多い。いま、部屋のデザインも「ホテルみたいに」と発注する人が増えているというから、ホテルに関する感覚と住まいに関する感覚がごっちゃになっているのだろうか。
 それとも、技術の粋ということか。高い技術を生かした場所に住むというのは、それなりのステイタスなのか。
 いずれにしても、「高層マンション」という住まいに関するイメージを取り払って、ごく素直に住環境としてその場にいようとするときに、生の体をもった生き物として、住みやすさを感じられるかどうかはかなり怪しいように思う。そして、すでに育児環境としての検証をはじめ、各種の実証はなされているのだ。

■慣れと感覚
 私は、人がどのくらいまで生体としての我慢ができるのか、わからなくなることがある。通勤だって、慣れてしまえば苦痛はほとんどなくなったけれど、慣れるのは自分のなにかを殺すということなんだなあと恐怖したことがある。慣れてしまえる人は幸せなのか、慣れられずに逃げ出す人が幸せなのか。イメージによって自分の感覚を遮蔽できる人が強いのか、自分の感覚がイメージを覆せる人が強いのか。くどいようだけれども、住宅の話である。

(辰巳 渚)