丸の内の価値をはかる(3)街の軸-1

街の骨格-あばら骨を背骨に変えた仲通り再整備
 丸ビル、新丸ビルといった超高層ビルの建設とともに、丸の内再開発計画の中核となっているのは、丸の内仲通りの整備である。いまや、すっかりブランドストリートとしての地位を確立しているこの通りはしかし、再開発される以前は、オフィスビルの間の通用路というイメージがしっくりくるような通りだったろうし、さらに歴史を遡ると通り自体が存在していないものであった。

丸の内地区の認知の変化(江戸城→東京駅→仲通り)
 そもそも、丸の内地区は江戸時代には、大名屋敷が立ち並んでいた場所である。江戸時代の地図を見ると、お城の門前として、御三家をはじめとする大大名の武家屋敷が建ち並んでいる場所であった。つまり、丸の内は、お城(江戸城)に従属して存在する場所だった訳である。
 明治時代には大名屋敷がなくなり、一時は野原となっていたのであるが、大正初期に東京駅が建設され、昭和に入って鉄道交通が盛んになるに連れ、建物が建てこみ、丸の内地区は東京駅前のオフィス街としての地位を確立していく。地区の形が完成し、仲通りの原型も見られるようになるのはこの頃である。つまり、江戸から昭和に時代が下るにつれ、従属するものが江戸城から東京駅へと変化していったのである。しかし、何かに従属した地区であるという意味では変わりはなかったと言える。
 今回の仲通りの再整備は、城(皇居)や駅への従属から脱却、独立し、自らアイデンティティとしての軸(背骨)を持つのだという決意の表れのように捉えられる。そして、そのことは、他では真似できないであろう、様々な大仕掛けによって実現されていくのである。


現在の丸の内地区の地図:仲通りの幅員が周辺の道路に比べて、かなり狭いことが見て取れる。また、皇居や東京駅ともつながっておらず、本来地区の軸とはなりにくい。縦の幹線をつなぐ文字通りあばら骨のような通りである。
(添田昌志)