助け合えるまちのために 若林直子氏インタビュー(3)

前号でお伝えしたように、港区港南地区は、住民が主体になることで、地域を取り巻く環境の急激な変化にも耐えうる、しなやかで強いネットワークを形成しています。今回は、そのようなネットワークを形成することが出来た背景やしくみについて、より詳しくお話していただきます。
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― 「港南防災ネットワーク」が出来た経緯についてその特色なども踏まえて教えてください。

◇ユニークな「手挙げ方式」
 「港南防災ネットワーク」結成の最初のきっかけは、港区の呼びかけです。阪神淡路大震災を契機に、1996年、港区が「同じ公的避難所の範囲(小学校区など)の町会・自治会などが主体となって地域の防災ネットワークを結成すること」に対する支援事業をスタートさせました。この事業に、港南地区の方が応じられたんですね。
 私は、この事業については、港区の業務委託先だった事務所にて企画提案からずっと担当していたので詳しいんです。こういう事業は首都圏で盛んに行われたんですが、港区にはユニークな特徴があるんですよ。通常この種の事業は「ある年はA~C地区、次の年はD~F地区を・・というように支援し、数年間で全地域を網羅」といった、いわゆる「ローラー作戦」が一般的です。しかし、港区では「防災ネットワークをつくりたい」と申し出た地域から事業をスタートする「手挙げ式」という方針を取ったのです。その結果、できるまでどの位の時間がかかっても構わない、できない地域があっても仕方ない、といった地域主体の柔らかい事業が実現しました。

◇じっくり時間をかけるということ
 港南地区の場合、この「手挙げ」からネットワーク(地域防災協議会)の発会式までにかかった時間は大体1年半です。その間、10回ほどの会合等をじっくりと行いました。いわゆる「ローラー作戦」ですと、1年で1地域の会合にかけられる時間は平均して3~4回です。「じっくり」は地域の主体性を自然に育んでくれます。最初はこちら主導でのスタートですが、最後の発会式は完全に地域側が主導になってくれました。

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出典:http://www6.ocn.ne.jp/~happyman/bousainet/enkaku.htm
(写真中央手前が若林氏。会場は、ネットワークの一員「大東京信用組合品川駅東支店」の会議室)


 とにかく、「避難所などの範囲で町会・自治会等の地域がつながる」という事業は、地域側から捉えると微妙な問題を含んでいて、それなりの時間を必要とします。例えば、歴史のある地域にとって町会・自治会は一つの「村」で、そこならではの誇りがあります。元は一つだった「村」のなかに大型マンション等ができたため、新旧がうまくかみ合っていない地域もあります。小学校は「単なる公共施設」ではなく、その昔に地域の人たちがお金も労力も出して育てた、文字通り「地域の施設」であったりします。子どもの数が減ったから統廃合して、災害時の避難所の地域割りもこう変えて、とドライに話を進めることが難しい地域も少なくないのです。
 一方で、「自由に時間をかけられる」ということは、行政側の事情からすると、実に難しいことなんです。行政の事業予算は年度毎で決まっていて、次年度にその事業が継続できる保証はない。こういう事業が出来たのは、随意契約も可能だった時代ならではかもしれませんね。
 港南地区をはじめ、港区内の防災ネットワークは「それぞれの実情に合わせてじっくりつくろう」という大らかな土壌の中でスタートしたところが多い。港南と同時期に立ち上がった他のネットワークも、発会までは同じくらいの時間をかけています。何事も立ち上げ時のスピリッツがその後にも影響を与えるもので、当時の状況が港南防災ネットワークのあり方にも功を奏している側面はあると思います。

港南防災ネットワークのHP

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