駅から降りたときの気持ち

■ほっとする風景
 私が住んでいる街は、JR東海道線の茅ヶ崎駅を使う。北側は、大型小売店やらディスカウントストアやらが立ち並び、バスやタクシーが時間待ちで並び、市役所もありスターバックスやツタヤもある、比較的にぎやかだけれども、なんの変哲もない郊外駅前ロータリーなのだが、私が住んでいるのは南側。
 やはり何の変哲もないさびれたような駅前で、ぽかっと開けたロータリーにはモニュメント、ミモザのような花をつける(たぶんアカシアの一種だろう)大木と、放射状に広がる地元密着型の商店街がある。
 ところが、これがおもしろいもので、仕事から帰って駅に降り立ち、南側のロータリーに出て、「ミモザのような花をつける木」(長ったらしいが、心のなかでこう呼ぶ習慣がついてしまったのだ)とモニュメントの上にある時計(朝は、この時計をにらみながら駅に駆け込むわけ)を見ると、ほっとするのである。
「帰ってきた」「私のテリトリーだ」という感じ。
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 きっと、どのような駅前であっても、そこに住まう人たちには「ほっ」と目を留めるなにかがあるのだとは思う。それが、「住む」ということであって、自分の生活が根を下ろしている街、買物したり駅まで歩いたり食事をしにいったりするなかで、目に見えないけれど確実なマークをつけてある街だから、駅前に、心のなかでもっとも目立つマークを持つ。駅は、点ではあるけれど、「私の街」と「世間/そと」との境界(線)なのだ。

■駅前のマーク
 さて、ところが、私が住人として住んだ街を思い起こすと、この境界上のマークをもう思い出せないところと、はっきり覚えているところがある。JR阿佐ヶ谷駅の商店街の入り口にある看板と並木道は、いまも懐かしい思いさえするマークだった。
 すぐに駅の名前を思い出せない、京王線沿線のある街では、なぜか踏み切りだった。電車で帰ってくる都合上、駅ではいつも踏み切りの音(なんと言うのだろう、警戒音というかカンカンカンというあの音だ)を耳にしていたことも関係あるかもしれない。
 小田急線沿線のある街、東急田園都市線沿線の街は、どうも思い出せない。いま、茅ヶ崎駅の北口を思い出すときに、イトーヨーカ堂のハトのマーク(いまはセブンイレブンホールディングスになっているが)を思い出すように、東急系のスーパーマーケットのマークが思い浮かぶくらいだ。それも、記憶なのか想像なのか、区別がつかない。
 街の開発が、駅の開発とセットになることが多い以上、駅前の大型ショッピングセンターは必須なのかもしれない。けれど、その圧倒的な存在感というか、圧倒的な広告力によって、そのほかのささやかな、人が眼と心を留めたい物の存在感を失わせてしまう。
 これは単なる思い付きなのだけど、いま各地で問題となっている郊外大型ショッピングセンター建設と、駅前商店街の衰退も、立地だけから言うと「そういう共存もありなんじゃない」とさえ思ってしまう。大型ショッピングセンターは、ある種隔離された空間にあったほうが、ふさわしい気がするのだ。
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 かつて、家路につく、といい、家の明かりをみてほっとすると言った。私がどう感じているか、よくよく考えてみると、家の明かりをみたときよりも、自分の駅に降り立ったときのほうがほっとする。駅の改札を出たときに、オンのモードがオフに切り替わる。
 駅は駅であればいいのだけれど、もう少し、と思う

(辰巳 渚)