おいしいパン屋がある街は住みやすい

■住みやすさの条件
 なんでも「○か条」とかにしてしまうのは、魅力的ではあるけれど危険なことでもある。なぜなら、それはすぐに紋切り型になり、それ以外のあいまいで奥深いゾーンへの関心を失うことになりかねないからだ。
 でも、「○か条」のように洗い出し作業をすることで、もやもやとした感覚がすっきりした視点として整理できるのも事実。つまりは、この作業は、結果として「学ぶ」側には面白みが少なく、結果まで到達する側にはめくるめく快感のある作業なのだと思う。
 と、前置きが長いのだが、要は「そっか、住みやすい街の条件として『おいしいパン屋のある街』という条項があるな」とわかった、という話だ。
                   *
 「住みやすさ」とは、数値化しにくいものだ。どんなことでもそうだが、人と世界との関係性には、レベルがある。生物学的レベルにおいては「生きられる」--たとえば、雨に当たらない、清潔である、最低限の居住面積が確保されている、トイレがあるといったこと--、人文学的レベルにおいては「住める」--たとえば、隣とのプライバシーが保たれる、生活に必要な商店がある、道路が整備されているといったこと--。これらのレベルは、数値化しやすい。たとえば、「国富」がGDPや国民の数といった数値では計りやすいように。
 では、「住みやすい」の内容はなんだろう。いわば哲学的レベルのことは、人それぞれでもあるし、「気持ちいい」「くつろげる」は数値にできない。「便利」でさえも、なにがどう便利かは、このレベルにおいては数値とはイコールではない。駅から徒歩5分が便利なのか、駅から徒歩30分でも犬と散歩したい海岸へ徒歩2分のほうが便利なのか、毎日食材を買うスーパーまで車で5分が便利なのかコンビニまで徒歩1分が便利なのか……。

■「パン屋」の意味
 ところが、「パン屋」という指標は、なかなか有効なのだ。おいしいパン屋があるとは、ただ「○○というパン屋が徒歩圏にある」という話ではない。
 それは、パンだけでなく食生活にそれなりに心をかけている人が住んでいることを意味する。東京圏であれば、新宿や銀座のデパ地下で「おいしいパン」を買って帰るのではなく、地元でこまめにパンを買いたいと考える人が住んでいるということも。ということは、住生活や地域での暮らしに、それなりに心を注いでいる人が住んでいる街ということだと思う。そして、おいしいパンというのは作り手の意識も高いものであって、そういう作り手が店を張る地として選んだということでもある。
 こういう単純だけれども、その意味するところが幅広く豊かな指標が、ほかにもいろいろあるはずだ。本来なら、「いごこちのいい公園がある」も、その指標となるもののはずだけれど、公園に関しては形だけの児童公園を役所がせっせと作ったりしてきた歴史があるために、指標とはならなくなってしまったのが残念だ。
 付け加えておくと、「小学校が街のなかの一等地にある」というのも、なかなかいい指標だと思うのだが、いかがだろうか。

(辰巳 渚)