楳図邸騒動から景観を考える(3)

 吉祥寺の閑静な住宅街に赤白縞の住宅建設がちょっとした問題を引き起こしている。報道を見る限りでは、施主側も建設反対住民側も双方ともに利己的な主張をしているにすぎない。法で規制されるとそれを守る事でその範囲での自由が保証される。しかし、逆に規制がない場合には、何をしてもよいのだという根拠にはしづらく、保証してくれる大義が得にくい。街並を形成する建物の美的な質については特にそうである。今回のケースで持ち上がっている赤白縞は、そのような「保証」からはずれてしまった事例とも言えよう。この保証外の質を問題としはじめた背景には、「景観法」などにより景観の価値が少なからず認められようとしていることがあるのかもしれない。ただ、現実に景観が問題となるのは、ほぼ既存景観の保護に偏っているのではなかろうか。景観を守る対象としか見ていないのは、大きな勘違いを孕んでいる。本来、景観は作っていくものであり、既得権益を主張するための対象とはすべきではない。

■将来像に対するコンセンサス

 今回の一件は、報道されている内容から判断する限りは、赤白縞が好きでたまらない人と許容できない人との口喧嘩にしか見えない。議論が口喧嘩レベルに急落してしまうひとつの原因に、街並の将来像に対して、あらかじめ何のコンセンサスも得られていない点が挙げられよう。自分が大切にしているものが何か、失ってはじめて気づくということもある。しかし、失われそうになってから、赤白縞をつるし上げても何の解決にも進歩にもつながらない。反対する上では少なくとも「赤白縞が街の未来像と方向を異にするものだ」というコンセンサスを形成していない限り、利己的なわがままとしか捉えようがない。(そのようなコンセンサスを得るのは、周囲の住宅を見る限りそれは困難としか思えないが)
 建築技術向上に伴い、建築はより今まで以上に長い寿命が想定されてきている。姉歯事件以降、それを支える専門家に対する技術的責任の意識が社会的に大きくなっていると言える。寿命が延びた建築は、街並や景観に関して長期にわたる責任を負うことになってきているとの意識も同時に高める必要が出てきている。何よりも大切なのは、我々建築設計に携わる専門家こそ、吉祥寺で展開されているような口喧嘩の元凶なのだということを改めて認識すべきことにある。専門家は裏でこそこそと問題を起こさぬよう隠蔽に奔走するのではなく、街並の未来像を積極的に検討・議論し、周囲のコンセンサスを得られるよう、そして新しい価値を作り出すよう先導していかねばならない。
(川上正倫)