ベルリンの田園都市として知られているファルケンベルグは社会住宅(social housing)の初期の事例である。「インク箱住宅(Tuschkastensidlung)」という渾名が付けられているが、これはファサードの色彩が豊かであることに由来する。この住宅はイギリスの田園都市の動きの影響を強く受けており、新しい社会的目的・政治目的を都市計画で実践しようとした試みだ。それは、日本でもよく知られているブルーノ・タウトが設計した建物群である。
1910年のベルリンでは、低所得者層はテネメント・ブロックとよばれる4階〜5階の採光も得られず、換気も悪いような住宅に住んでいた。そのような状況をどのように改善すればいいかで悩んでいた社会改良者は、田園都市を発案したエベネザー・ハワードの『明日の田園都市』に解決の道を見出す。特に「都市と農村の結婚」というコンセプトは彼らに大きなインパクトを及ぼした。そして、ドイツにおいても田園都市がつくられはじめるのだが、ハワードが強調した「経済的自立」という目標はあまり重視されなかった。
1902年に設立されたドイツ田園都市協会は、厳しい土地取得交渉の結果、ベルリンの南東部にあるファルケンベルグにある土地を入手する。そして、1912年にまだ無名であったブルーノ・タウトに、ハワードの田園都市のモデルを参考にした住宅地の設計を依頼し、その開発に取り組んだ。タウトのオリジナルの計画では1,500戸、7,500人が住む住宅地がつくられる筈であった。しかし、第一次世界大戦後の経済不況によって、タウトの計画は1918年には中止に追い込まれる。
ただ、それまでの1913年から1916年の間に128戸の住宅がつくられた。そのうち、タウトは23の住宅を1913年に設計し、さらに34のテラスハウスを設計した。最初の住民は1913年に移り住んでいる。1914年から1915年にかけてさらに94戸の住宅がつくられた。
この住宅地の住宅は左右対称ではないが、これはタウトが強く意識したことである。個々の住宅がそれぞれ個性を有しつつ、全体では統一感を有しているような住宅地をタウトは目指した。それは、村落コミュニティの牧歌的な雰囲気を演出することを意識したためである。建物の建築線も一定ではなく、ランダムにしているのも意図的にしているのだ。そして、その個性を打ち出すために、住宅の色をデザイン要素として意識したのである。この住宅地では、使用する色にカラー・テンプレートのものはない。そういう点では、タウトが引き続き、マグデブルクで1912年から1915年に携わった二つの住宅計画とは異なっている。その色彩の豊かさが「インク箱住宅(Tuschkastensidlung)」というニックネームの由来である。現在の建物はペンキがオリジナルに忠実に1990年代に塗り直されている。それは産業革命期に多くつくられた住宅地とは大きく一線を画したものであった。
田園都市ファルケンベルクの住宅群はベルリンのモダニズム集合住宅群の一部として2008年に世界遺産に登録された。
354 ファルケンベルクの田園都市(ドイツ連邦共和国)







ベルリンの田園都市として知られているファルケンベルグは社会住宅(social housing)の初期の事例である。1910年代初頭、ハワードの田園都市をモデルにした住宅地を目指し、当時まだ無名であったブルーノ・タウトに設計を依頼するなどしてその開発が行なわれた。2008年、ベルリンのモダニズム集合住宅群の一部として世界遺産に登録されている。
ファルケンベルクの田園都市の基本情報
- 国/地域
- ドイツ連邦共和国
- 州/県
- ベルリン州
- 市町村
- ベルリン市
- 事業主体
- ドイツ田園都市協会
- 事業主体の分類
- 市民団体
- デザイナー、プランナー
- ブルーノ・タウト
- 開業年
- 2008年
ストーリー
地図
都市の鍼治療としてのポイント
ドイツ田園都市協会は1902年に設立される。ハワードが『明日:真の改革への平和的道すじ』を著したのが1898年、その改訂版である『明日の田園都市』を発表したのが1902年であることを考えると、ドイツの人達はおそらく『明日:真の改革への平和的道すじ』に感化されて動き始めたように思ったりするのだが、実際はどうだったのであろうか。
ブルーノ・タウトは1880年生まれである。彼を有名にした「鉄の記念塔」、「ガラスのパヴィリオン」がつくられたのが1913年、1914年であることを考えると、まさに30代の意気軒昂の時に、ファルケンベルグの社会住宅はつくられたのである。
ベルリンの都心部からファルケンベルクに行くのはちょっと面倒である。それはシェーネフェルト国際空港のそばにあり、ベルリン州とブランデンブルク州の境目に位置する。最寄り駅はグリューノウ駅で、郊外住宅地の中を5分ほど歩くとファルケンベルクの住宅地に着く。ファルケンベルクの住宅地に一歩足を踏み入れると、そこが周辺の郊外住宅地とは違う空気感を纏っていることにすぐに気づく。そのユニークさは、ブルーノ・タウトの独特の色彩の住宅群だけでなく、130㎡から600㎡までの規模の市民農園が住宅に併設されていることの空間の豊穣さのようなものから感じ取れる。これらの市民農園はルードヴィヒ・レッサーによって設計された。これは、田園都市住宅の自立性を担保するためと、コミュニティを結びつけることを意識してつくられた。ここの住民は、この市民農園で自由に野菜等を育てることができた。この農園がつくりだす色彩はブルーノ・タウトのカラフルな住宅群と上手く融合している。ブルーノ・タウトはこの農園を「屋外の居間空間」として表現していた。
その保全は細心の注意を払われて行なわれた。その保全活動がしっかりと行なわれるようになったのは東西ドイツが再統一した1990年以降である。1992年から建築事務所ブレネ・アーキテクテンがその修復に手をつける。これは、100年前のオリジナルな状態に復元させることを意識していた。特に色の復元には気を配った。世界遺産にはベルリンにある他の5つのモダニズム集合住宅群とともに登録されたが、その理由は20世紀前半において創造的で独創的な住宅・都市計画のアプローチを代表するからということであった。何より、21世紀の現在においても、この住宅地は優れた住環境を我々に提示する。ブルーノ・タウトの建築哲学が理解できるような事例である。
【参考文献】
ベルリン市役所のホームページ
https://www.visitberlin.de/en/falkenberg-garden-city
【取材協力】
Christian Kloss (ベルリン工科大学)
ブルーノ・タウトは1880年生まれである。彼を有名にした「鉄の記念塔」、「ガラスのパヴィリオン」がつくられたのが1913年、1914年であることを考えると、まさに30代の意気軒昂の時に、ファルケンベルグの社会住宅はつくられたのである。
ベルリンの都心部からファルケンベルクに行くのはちょっと面倒である。それはシェーネフェルト国際空港のそばにあり、ベルリン州とブランデンブルク州の境目に位置する。最寄り駅はグリューノウ駅で、郊外住宅地の中を5分ほど歩くとファルケンベルクの住宅地に着く。ファルケンベルクの住宅地に一歩足を踏み入れると、そこが周辺の郊外住宅地とは違う空気感を纏っていることにすぐに気づく。そのユニークさは、ブルーノ・タウトの独特の色彩の住宅群だけでなく、130㎡から600㎡までの規模の市民農園が住宅に併設されていることの空間の豊穣さのようなものから感じ取れる。これらの市民農園はルードヴィヒ・レッサーによって設計された。これは、田園都市住宅の自立性を担保するためと、コミュニティを結びつけることを意識してつくられた。ここの住民は、この市民農園で自由に野菜等を育てることができた。この農園がつくりだす色彩はブルーノ・タウトのカラフルな住宅群と上手く融合している。ブルーノ・タウトはこの農園を「屋外の居間空間」として表現していた。
その保全は細心の注意を払われて行なわれた。その保全活動がしっかりと行なわれるようになったのは東西ドイツが再統一した1990年以降である。1992年から建築事務所ブレネ・アーキテクテンがその修復に手をつける。これは、100年前のオリジナルな状態に復元させることを意識していた。特に色の復元には気を配った。世界遺産にはベルリンにある他の5つのモダニズム集合住宅群とともに登録されたが、その理由は20世紀前半において創造的で独創的な住宅・都市計画のアプローチを代表するからということであった。何より、21世紀の現在においても、この住宅地は優れた住環境を我々に提示する。ブルーノ・タウトの建築哲学が理解できるような事例である。
【参考文献】
ベルリン市役所のホームページ
https://www.visitberlin.de/en/falkenberg-garden-city
【取材協力】
Christian Kloss (ベルリン工科大学)
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