352 ネバーネバーランド(東京都)

ロック・バー コミュニティ・ハブ 暖簾

「下北沢の象徴」とも称される老舗ロックバー「ネバーネバーランド」。家賃の高騰などで2006年に閉店の危機に直面したが歯科医の下平憲治氏が経営を引き継いだ。「下北沢に恩義がある」と語る下平氏は下北沢のプロデューサーとして数多くのまちづくりに関わっている。

ネバーネバーランドの基本情報

都道府県
東京都
州/県
東京都
市町村
世田谷区
事業主体
下平憲治
事業主体の分類
個人 
デザイナー、プランナー
松崎博、下平憲治
開業年
1978年

ストーリー

 下北沢の北口。開かずの踏切と言われた茶沢通りの踏切跡地からちょっと北西に行った雑居ビルの二階にあるバー「ネバーネバーランド」。ちょっとフラワー・ムーブメントの時代を彷彿させるヒッピーな看板が目印の店だ。この店は1978年にプロのカメラマンであった松崎博が営業を始めた。店名はピーターパンに由来し、大人になりたくない大人のための店というのがコンセプトだ。松崎が店を始めた時、下北沢の家賃は現在と違って安かった。
 現在のネバーネバーランドのオーナーである下平憲治は、18歳の時にここを初めて訪れる。1962年生まれの長野の飯田市出身の少年にとって、店の看板「ロックバー」という文字はあまりにも魅力的であった。彼は東京の歯科大学に入りたての学生であったが、下北沢に魅了され、下北沢で下宿することにした。当時の下北沢は現在のようなサブカルチャーのメッカではなかったが、流行の先端を行くような若者を惹き付ける魅力を放っていた。下平はネバーネバーランドで将棋をしていた常連の相手をする。下平はその後、バックギャモンの日本チャンピオンになるほどの才を有しており、将棋も非常に強かった。将棋の強さを通じて、常連に受け入れられた下平もネバーネバーランドの常連客となっていく。ただ、将棋では認められた下平であったが、松崎には見下されていた。下平はその理由を、下北沢で一目置かれるには芸術家でないとダメだからだ、と筆者に解説した。下平は将棋は傑出して強かったが、芸術家ではなかった。ギターを弾いて、ロック・ミュージックを愛していたがミュージシャンとして評価される才能には不足していたのである。松崎は下平に直接「お前にはカリスマもなければ、光る才能もない」と言い放ったこともある。
 ネバーネバーランドは80年代や90年代の音楽を流していた。ザ・バンド、シャーディ、山下達郎などである。中川五郎やつんくなどがこの店をよく訪れた。ただ、松崎には馬鹿にされていた下平であったが、松崎の妻・京子は下平に対してまったく逆の印象を持っていた。そして2003年に松崎が亡くなった時、京子は下平に助けを求める。松崎は多くの友人を持っていたが、京子は一番信頼できるのは下平だと考えたのである。そして、下平は京子のために松崎の音楽葬を企画し、実践する。この音楽葬で京子の下平への信頼は高まった。大家の都合で店は現在の場所へと2004年に移転するが、二年経って店の経営に行き詰まった京子は、下平に閉店したいと相談する。下平は悩むが、その時点で25年も続いていた下北沢の老舗ロックバーを潰すわけにはいかないと決意し、彼が店を引き継ぐことにした。また、音楽葬で下平に一目置くようになったのは京子だけではない。ネバーネバーランドの常連客も下平が引き継ぐのであれば認めようという流れも出来ていた。2006年のことである。
 店を引き継いだが月に20万円ぐらいの赤字がでる。店が移る前の家賃は8万円、引っ越したら24万円。家賃は上がったが景気は落ちていた。それまで歯医者としての仕事をセーブしていたが、下平はこの赤字分を稼ぐようにした。
 下平はネバーネバーランドをみんなのリビングルームのようにしたいと言う。一日の仕事が終わって家に帰れば人々はリビングルームで寛ぐ。嬉しいことがあったらネバーネバーランドに来る。悲しいことがあったらネバーネバーランドに来る。これがネバーネバーランドの基本。音楽もしっかりとやる。機材等もいいのを揃える。音楽を聴いている客が喜ぶ。ネバーネバーランドは下北沢の文化的中心を目指している、と下平は筆者に述べた。
 ネバーネバーランドは2013年版のミシュラン旅行ガイド『Michelin Green Guide Japon』(ミシュラングリーンガイド:日本編)で訪れるべき場所として一つ星を獲得する。下平に取材したミシュランの調査員は下北沢の街の素晴らしさを賞賛したそうだ。そこにはフランス的なものがある、すなわち個人が個人の思いでやる自由さがあると指摘する。「下北沢の象徴がネバーネバーランドだ」というのが調査員の言葉である。

地図

都市の鍼治療としてのポイント

 私は下北沢という街を相当、愛するものであり、『ネバーネバーランド』という老舗のロック・バーもよく訪れる。ここのカウンターに座ると、なぜか初対面なのに古い友達のように話しかけられることが多い。私のような頭髪の薄いうだつの上がらない中年男でも、独りの世界に浸ることは難しい。客がちょっかいを出してくれるからだ。そして、話しかけはされても、ある一定の線以上は踏み込むことはしない。そのような都会的な距離感の持ち方の洗練さのようなものは、お店、そして街が鍛えてくれるものだと思う。そして、それは客を消費者ではなく、人として捉えてくれる個人店であるからこそ出来ると考察する。
 そのようなお店では、消費者顔をして我が儘を言い張ることはできない。下北沢の老舗のお店は、店が客を選ぶ。講釈を垂れる街であり、店は講釈を聴く場所であるのだ。そこにはうざさを覚える重たさが伴い、軽薄な関係性はない。21世紀になると、下北沢の街を分断するような広幅員の道路整備事業が具体化されることになり、それへの猛烈な反対運動が起きる。そして、その運動の拠点となったのがネバーネバーランドを含むロックバーであった。マザー(都市の鍼治療 No.293「ロックバー『マザー』(東京都)」)、ベルリン、ガソリン・アリー、トラブル・ピーチなどである。ロック・バーがなぜ下北沢において重要なポジショニングを有しているのか。それは、ただロック音楽を聴くだけの場所ではなく、そこで市民として必要な政治的な意識を学ぶ、パリやウィーンのカフェと同じような役割を有しているからであろう。自分達が好きな街を守るためには、自分達が動かなくてはいけないという意識である。
 そして、そのような老舗のロック・バーの暖簾を守ったのは下平憲治という、下北沢に必ずしも認められなかったが、下北沢を愛した青年であった。彼は経営を引き継いだ理由を次のように述べている。「マザーの店長の妹がオーナーをしていたGAJAがちょうどその1年前に潰れた。そして、その半年後にオーナーも亡くなる。街の喪失感はとても大きく、個人的にもとてもショックだった。おそらく、GAJAが潰れてなかったらやってなかったでしょう。ネバーネバーランドが潰れたらGAJAと同じように苦しむことになると思うと自分がやるしかなかった」。
 下平も何で下北沢が好きであるかが分からないという。ただ、下北沢で青春時代を送って、恋愛もした。奥様も見つけた。下北沢に恩義があると言う。一方で、女性をめぐって非常に切ない思いをしたとも言う。そういうこともあって、いつか、いい男になってやろう。いい男になるには下北沢でなくてはならないだろう。自分を否定している街で男を上げてやる。京子さんに松崎の葬式をしてくれと頼んでもらった時は嬉しかったと語る。そして、自分を見下していた男の店の暖簾を下北沢という街のために維持するという行動に出るのであった。
 その後、下平は下北沢のプロデューサーとして、将棋のイベントをはじめとした多くのまちづくりに関わる。下北沢を紹介するテレビ番組や新聞、雑誌などでは、下北沢の顔として紹介されることも少なくない。まさに下北沢の傑出した「都市の鍼灸師」の一人であり、その基地がネバーネバーランドであるのだ。

【参考文献】
Keiro Hattori (2015): 「Tokyo's "Living" Shopping Streets: The Paradox of Globalized Authenticity」in 『Global Cities, Local Streets』Routledge

【取材協力】
下平憲治 ネバーネバーランド・オーナー

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