マールブルク市はヘッセン州にある人口が76,000人ほどの都市で、ラーン川沿いの盆地に展開している大学都市である。マールブルクには14世紀から19世紀にかけて建てられた歴史建築物が700軒以上も残されている。第二次世界大戦に爆撃を免れ戦災を受けなかったこともあり、丘陵地につくられた旧市街地に、細い路地が毛細血管のように広がっている。そして、その細い路地に沿って建物がお互いを押し合うようにしてぎゅうぎゅうに建っている。そこに入ると、あたかも中世の時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。しかしこれら貴重な歴史的街並みも戦後は放っておかれたこともあって荒廃がどんどんと進んでいった。
その状況にどうにか歯止めをかけ、それを改善させようとしたのが、1970年に市長となったハンノ・ドレクスラーである。ドレクスラーはその後、1992年までの22年間、マールブルクの市長を務める。現在のマールブルクの優れた都市空間は彼の手腕に負うところが大きい。ドレクスラー市長は、就任するとすぐにマールブルクの歴史建築物の破壊をこれ以上進めてはいけないと決断する。そしてマールブルクにはこの市長の考えを支持する有力な人材が存在した。そのうちの一人は、ちょうどこの頃、マールブルク大学に赴任してきたヘンリッヒ・クロッツである。彼はドレクスラー市長の保全事業に科学的なサポートを提供すると同時に、大学教育を通じて、有能な人材を輩出させていった。もう一人は市役所の都市計画を担当していたディートヘルム・フィフトナーである。彼はドレクスラー市長の右腕となって実際の保全事業を遂行していった。そして、ドレクスラー市長はリーダーとしての器を具えていた傑出した政治家でもあった。彼は所属する政党からフランクフルト市長選に出ることなどを勧められるが、その10分の1ぐらいの規模の自治体の市長を一貫して務めることになる。政治(ドレクスラー)、学術(クロッツ)、行政(フィフトナー)の三位一体的な体制が、当時のドイツでも珍しい、戦災復興ではない歴史的街並みの修復事業を推進させていくこととなる。
最初に歴史的街並みの実態調査を実施し、改修事業を展開するうえでの問題点を明らかにした。そして地主が自分達で改修事業を行うこと、事業に否定的なテナントの数を最小にすること、さらに1971年から施行された連邦政府の都市開発促進法での補助金は危機的な状況のみにおいてあてにすることとした。一番の課題は、地主を含めて市民全員をそのプロセスに参画させることであった。「マールブルク都市景観イニシチアブ・グループ」という市民グループが『マールブルクの破壊』、『マールブルクの変遷』というパンフレットを作成し、マールブルク市民に配布し、いかに歴史的街並みや都市景観が政策的判断の影響を強く受けるのかという問題の周知を図った。これによって、市民だけでなく、政治家の問題意識をも高めた。それは、当時としては極めて斬新な試みであった。しかし市長を含めて、ボトムアップ的な協力がなければこの事業が持続することが無理であることは理解していた。この急がば回れ的な方法論は、結果、現在にまで引き継がれる持続的なマールブルクの歴史的街並みの保全に繋がった。
歴史的街並みの保全改修は1972年から開始された。これによって、同地にある歴史建築物の緩やかなる瓦解に終止符が打たれることになった。それに加えて、ドレクスラー市長は旧市街地の中心部から自動車を排除し、歩行者中心の空間を整備した。現在の旧市街地の素晴らしい空間は、彼なくしては実現されなかったであろう。マルブルクのボトムアップで丁寧な旧市街地の改修事業はドイツの他の都市の模範であると評価され、1984年には全国の「旧い建物を改修して、そこに住む」賞の一等を受ける。
324 マールブルクの旧市街地保全(ドイツ連邦共和国)
マールブルク市はヘッセン州にある人口が76,000人ほどの都市。第二次世界大戦の戦災を受けなかったこともあり、丘陵地につくられた旧市街地に、細い路地が毛細血管のように広がっている。そこに入ると、あたかも中世の時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
マールブルクの旧市街地保全の基本情報
- 国/地域
- ドイツ連邦共和国
- 州/県
- ヘッセン州
- 市町村
- マールブルク市
- 事業主体
- マールブルク市
- 事業主体の分類
- 自治体
- デザイナー、プランナー
- ハンノ・ドレクスラー
- 開業年
- 1972年
ストーリー
地図
都市の鍼治療としてのポイント
ハンノ・ドレクスラーは旧東ドイツのザクセン州出身であったが、1955年に妻と一緒に旧東ドイツから旧西ドイツへと亡命する。そして、マールブルクのフィリップス大学の博士課程に進み、1962年に博士号を取得する。その後、フィリップス大学で教鞭を執るが、1970年にマールブルクの市長に選ばれると、健康上の理由で1992年に引退するまで22年間市長を務めた。政党としてはドイツ社会民主党に所属し、政党からはマールブルクより大きなフランクフルト市長選への立候補を勧められたり、ヘッセン州の内務大臣といった役職への打診もされたりしたが、一貫して断り、マールブルクの市長を務め続けた。
ドレクスラー市長は厳しい予算管理の中、歴史的街並みの保全を始めとした事業を遂行させていく。また、行政職員の責任を大幅に拡大すると同時に、公正明快なマネジメントを行うことで、職員のやる気を促し、その結果、市役所がサービス機関として機能し始める。これは、役所仕事というのが不親切と非効率の代名詞であるようなドイツでは結構珍しいことである。個人的には、ドレクスラー市長はクリチバ市のジャイメ・レルネル元市長を彷彿させるような人物である。
このプロジェクトの最初の作戦会議は、ドレクスラー、クロッツ、フィフトナー等がマールブルクのビール醸造所に集まって行われた。議事録の代わりに、ビール用のコースターにいろいろとメモを書きながら考えがまとめられていった。そこでは、歴史的街並みの修繕は相当注意深くやらなくてはいけないことや、歴史的街並みに新しい建物をつくる時には細かい規定を設けないといけない、などの方向性が決められた(フィフトナーの回想録より)。マールブルク市が歴史的街並みの保全に動き出した当時、ドイツではそのような分野での成功事例はほとんど知られていなかった。ヨーロッパでもボローニャやコルマーなどの先行事例が知られているぐらいであった。そういう意味でマールブルクのこの事業が成功することは、新しい規範事例となることをも意味していた。
マールブルクが優れていたところは、ドレクスラー市長が歴史的街並みの保全事業だけに注目したのではなく、それを遂行させるための体制を構築し、その体制の構成員のモチベーションを高め、持続性を維持させるためにボトムアップという方法論を採用し、さらにお金の使い方が上手かったからである。マールブルクの歴史的街並み保全では、その修繕費用に関して、歴史的建築物の保全のための補助金だけでなく、社会住宅の建築のための補助金をも上手く使った。また、隣町のフランケンベルクはヘッセン州と連邦政府の補助金を旧市街地の取り壊しのために使ったが、マールブルクでは同じ費目の補助金で、それを歴史的建築物の保全のために用いた。50年後の今から考えると、ちょっと想像することも難しいが、当時はマールブルクよりフランケンベルクのような都市の方が一般的であったのである。マールブルクは、他の都市が旧市街地を取り壊していた時に、その歴史的価値を認識し、その大きな指針のもとにまちづくりを進めていたのであった。そして、マールブルクでは、歴史的建築物を維持させるために使えそうな、州レベル、連邦政府レベルの補助金はすべてそのために使うように創造的な知恵が動員された。それは、補助金は人々が思うほど拘束的ではなく、交渉とプレゼンの優秀さによっては、自治体に有益であることに使えるという一つの証左でもあった。
今ではマールブルクのアプローチは王道であり、そのユニークさもあまり感じられないかもしれないが、1972年にそれを実現させた時はむしろ異端であった。その異端の中に正当性を見出した市長、そして、その市長を支えた人材と市民の覚悟が、今の素晴らしいマールブルクの歴史的街並みを「つくりあげた」のである。
【参考文献】
Erhart Dettmering (2007): “Marburg – Kleine Stadtgeschichte” Verlag Friedrich Pustet
Diethelm Fichtner (2010): “Die Sanierung der Marburger Altstadt: Bauen im historischen Kontext”, Brill
ドレクスラー市長は厳しい予算管理の中、歴史的街並みの保全を始めとした事業を遂行させていく。また、行政職員の責任を大幅に拡大すると同時に、公正明快なマネジメントを行うことで、職員のやる気を促し、その結果、市役所がサービス機関として機能し始める。これは、役所仕事というのが不親切と非効率の代名詞であるようなドイツでは結構珍しいことである。個人的には、ドレクスラー市長はクリチバ市のジャイメ・レルネル元市長を彷彿させるような人物である。
このプロジェクトの最初の作戦会議は、ドレクスラー、クロッツ、フィフトナー等がマールブルクのビール醸造所に集まって行われた。議事録の代わりに、ビール用のコースターにいろいろとメモを書きながら考えがまとめられていった。そこでは、歴史的街並みの修繕は相当注意深くやらなくてはいけないことや、歴史的街並みに新しい建物をつくる時には細かい規定を設けないといけない、などの方向性が決められた(フィフトナーの回想録より)。マールブルク市が歴史的街並みの保全に動き出した当時、ドイツではそのような分野での成功事例はほとんど知られていなかった。ヨーロッパでもボローニャやコルマーなどの先行事例が知られているぐらいであった。そういう意味でマールブルクのこの事業が成功することは、新しい規範事例となることをも意味していた。
マールブルクが優れていたところは、ドレクスラー市長が歴史的街並みの保全事業だけに注目したのではなく、それを遂行させるための体制を構築し、その体制の構成員のモチベーションを高め、持続性を維持させるためにボトムアップという方法論を採用し、さらにお金の使い方が上手かったからである。マールブルクの歴史的街並み保全では、その修繕費用に関して、歴史的建築物の保全のための補助金だけでなく、社会住宅の建築のための補助金をも上手く使った。また、隣町のフランケンベルクはヘッセン州と連邦政府の補助金を旧市街地の取り壊しのために使ったが、マールブルクでは同じ費目の補助金で、それを歴史的建築物の保全のために用いた。50年後の今から考えると、ちょっと想像することも難しいが、当時はマールブルクよりフランケンベルクのような都市の方が一般的であったのである。マールブルクは、他の都市が旧市街地を取り壊していた時に、その歴史的価値を認識し、その大きな指針のもとにまちづくりを進めていたのであった。そして、マールブルクでは、歴史的建築物を維持させるために使えそうな、州レベル、連邦政府レベルの補助金はすべてそのために使うように創造的な知恵が動員された。それは、補助金は人々が思うほど拘束的ではなく、交渉とプレゼンの優秀さによっては、自治体に有益であることに使えるという一つの証左でもあった。
今ではマールブルクのアプローチは王道であり、そのユニークさもあまり感じられないかもしれないが、1972年にそれを実現させた時はむしろ異端であった。その異端の中に正当性を見出した市長、そして、その市長を支えた人材と市民の覚悟が、今の素晴らしいマールブルクの歴史的街並みを「つくりあげた」のである。
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