193 羽根木プレーパーク (日本)
ストーリー:
世田谷区の羽根木公園には、子供達が木登りや泥んこ遊び、はたまた焚き火までを自由に気ままに行える一画がある。羽根木プレーパークである。プレーパークとは、子供達が自らの創造力で、遊びをつくりだすことができる遊び場で、1943年にデンマークのコペンハーゲンで「がらくた遊び場」という名称のものがその嚆矢と言われている。それは、子供たちに自主性、主体性、社会性、そしてコミュニケーション能力を獲得してもらいたいという期待が込められた遊び場である。
ヨーロッパでのそのような試みに関心を抱いた世田谷区の住民達が、自分達も似たようなものつくろうと動き出し、1975年に「遊ぼう会」を結成し、ボランティアなどの手だけでプレーパークのような遊び場づくりを始めた。その後、世田谷区にも交渉し、運営資金の援助を求めたのである。1979年は、国連児童年であったこともあり「遊ぼう会」のそれまでの交渉が実り、世田谷区の国際児童年記念事業の一つとして「羽根木プレーパーク」が開設されることになる。
そして、「遊ぼう会」の父母とプレーリーダーの有志、それに区の公園課と児童課の職員が地元小学校のPTA役員や町会長に声がけをして準備会を開催し、遊び場のイメージを共有することや、羽根木公園内の開設場所の検討を行った。立地場所は、羽根木公園の東側にあるごみ捨て場となっていた起伏に富んだ地形が選ばれた。このようにして、世田谷区の単年度事業として1979年に夏休みの期間限定で「羽根木プレーパーク」は誕生した。それは、住民と行政による先駆的な協働事業としての試みであった。
当時の基本計画では、「児童を媒介とした地域活動を展開し、コミュニティの醸成につとめ、地域社会に於ける児童の健全育成の強化をはかる」と記されていた。これより、児童育成といった観点だけではなく、地域コミュニティを育てることも意図されていた事業であることが分かる。世田谷区は、日本で最初にプレーパーク事業を区政のなかに位置づけた自治体であった。
単年度事業として実施された「羽根木プレーパーク」であったが、好意的にその事業が捉えられ、翌年以降も継続して開園していくことになった。翌1980年は、社団法人日本青年奉仕協会から派遣されたボランティアが常駐者として滞在してくれることになり、1979年は夏休みだけの開園だったが、それ以外の平日も開園することになった。
一方、運営体制の見直しも行われることになった。ひとつの骨折事故をきっかけとして、「自分の責任で自由に遊ぶ」というプレーパークのモットーを掲げ、事故については細心の注意を払いながらも、遊びに制限や禁止をせずに子供達の自由な遊び場を確保するということを優先させることにした。羽根木プレーパークは世田谷区の補助事業ではなく、事業委託を受けている形で、住民達で運営されている。組織的にはNPO法人(2005年設立)である。つまり、場と資金は区が確保し、運営はプレーワーカーと、地域住民である世話人達が担うという「二人三脚」方式を採用している。
プレーリーダー(その後、プレーワーカーという名前に変更される)がいる中、ここでは、他の公園ではなかなかできない焚き火や泥遊び、木登りなどをすることができる。また、羽根木プレーパークでは、地域で生活する住民たちが「世話人」となっている。これは、地域で生活するお母さんやお父さんなどである。このプレーパークで子供時代を過ごした人たちが「世話人」やプレーリーダーになる場合もある。
羽根木プレーパークは大きな反響を呼び、その後、全国各地に似たような遊び場空間がつくられるようになっていく。
キーワード:
プレーパーク, 公園, 児童遊園, 市民参加
羽根木プレーパーク の基本情報:
- 国/地域:日本
- 州/県:東京都
- 市町村:世田谷区
- 事業主体:NPO法人プレーパークせたがや
- 事業主体の分類:市民団体
- デザイナー、プランナー:大村虔一
- 開業年:1979年
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
羽根木プレーパークは、日本で初めてつくられたプレーパークとして知られている。子供の自由に遊びたいという気持ちを、安全という枠で縛り付けない、というなかなか画期的な試みである。それは教育的な効果も極めて高い。しかし、そうはいっても、そうすることで怪我をする確率は遙かに高くなる。この点について、どのように対処しているのか。前から気になっていたので、今回、「都市の鍼治療」の事例として紹介するうえで、その点を、第4代代表の齊藤何奈さんに取材した。
まず、重要なことは、プレーパークの価値観を押しつけないということだそうだ。子供の育ちには、それは絶対的にプラスで必要なことでもあると考えているが、それを強く主張しない。周辺の住民も新しく引っ越してきた人などは、この活動をそれほど理解してくれない。周辺住民のクレームは、たいてい焚き火や騒ぎ声である。クレームが来たら、まずはこちらの言い分を主張するのではなく、それを対話のきっかけと捉えて、相手の状況や考え・気持ちを理解するようしっかりとコミュニケーションを図り、対応策を考えるそうだ。また、怪我をしない、といったことを必ずしも最優先事項とはしていないが、怪我が起きやすい工作場所は子供が走ったりしないように動線を考えたりはしているそうである。保険は、NPO法人プレーパークせたがやが、事業に「賠償責任保険」をかけているのと、ボランティア保険は世話人とプレーワーカーが加入している。
このプレーパークでは、普通の公園ではできないような、焚き火、木登り、水遊びなどができる。子どもたちがやってみたいと思ったことをやってみたり、挑戦できること、そしてその過程を試行錯誤できることを何より重要であると考えている。
また、齊藤さんに現状、抱えている課題を尋ねると、現場の運営が難しくなってきていることを指摘していた。このようなプレーパークが成立するためには、誰かが自分の家庭のこと以外を考えてくれないと難しい。昔に比べると、専業主婦であった母親が仕事に出るようになってしまい、地域から離れてしまっている。齊藤さんは「子供のセーフティネットとしても親が地域とネットワーク化しておく必要がある。うちの子を救うと思ったら、自分の子供プラス他の子のことも少し気に掛けないと。そういう感覚の人が減っている」と危機感を募らせていた。それは地域力の衰退である、と。
この公園が開設された当時、世田谷区は事業の意図として、子供が自由に遊ぶ場所を生活地域においてつくると同時に、遊び場づくりを介して地域コミュニティを醸成することも意識していた。羽根木プレーパークをつくりあげたのは、まさにボトムアップの住民の地域力であり、その地域力を結束させたハブ(結節点)が羽根木プレーパークであり、さらに、それを育み、強化させる役割をも担っていたのである。そして、齊藤さんが危惧されていた点は、まさにボトムアップの住民の地域力が弱まってきたことを示唆している。それは、違う角度からみれば、再び羽根木プレーパークが地域力を結束させて、地域力を育む役割を期待されていることでもある。
ちょうど、羽根木プレーパークを「都市の鍼治療」として紹介しようとした時、世田谷区の生活工房ギャラリー(三軒茶屋・キャロットタワー3階)で、羽根木プレーパークなどのこれまでの歩みを紹介した「プレーバック、プレーパーク!遊び場をめぐる冒険」という展示を行っていた。その開催趣旨には「外で遊ぶ場所や機会が減少し、また、『孤育て』という言葉も耳にする昨今、1979年の羽根木プレーパークから遊びと自治を考えます」と述べられていた。
1979年時の絶妙なる「都市の鍼治療」は、それから40年経ち、再び、鍼として機能することが求められているのではないだろうか。
【取材協力】齊藤何奈(第4代代表)
【参考資料】プレーパークせたがやのホームページ(http://playpark.jp/history)
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