254 グエル公園(スペイン)

254 グエル公園

254 グエル公園
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254 グエル公園
254 グエル公園
254 グエル公園

ストーリー:

 バルセロナは19世紀後半に中世の壁を越えて、異様なスピードで都市が拡張した。その50年間でバルセロナの人口は15万人から60万人へと増え、住宅の需要は高まった。さらに1870年には伝染病が蔓延し、郊外住宅地の開発が希求された。そのような中、バルセロナ北部の標高400メートルのカーメル丘に、スペインの事業家、そしてアントニオ・ガウディのパトロンとしても知られるエウセビ・グエルによって60戸の郊外住宅地が計画される。当時、一世を風靡していたエベネザー・ハワードの「田園都市」に感化されたグエルが、この郊外の地にバルセロナの「田園都市」を実現すべく、その設計をアントニ・ガウディに依頼したのだ。グエルとガウディはバルセロナ市議会にて1904年10月にその計画を説明している(Alan Tate, “Great City Parks”.)。
 グエルとガウディはこの地を最先端の技術を享受し、かつ意匠をも凝らした大邸宅群が良好な自然環境の中に建っているような場所にしようと構想した。工場から出される汚染された大気から離れ、新鮮な空気を確保でき、計画では建物の建蔽率は1/6に抑えられ、そこから地中海への展望が確保されるよう配慮された。また、彼らはこのコミュニティにカタロニア、カトリック、さらに神話的なストーリーを加味させることを試みた。
 しかし、この計画はビジネス的には大失敗であった。結局、つくられた建物は3軒にしか過ぎず、どれもガウディの設計ではなかった。そのうちの一つの建物はモデルハウスであり、1904年につくられたものだが、売りに出されても買い手がつかず、グエルの提案もあり、ガウディが1906年にそこを買い、亡くなるまで家族とそこに住むことになる。この建物はガウディの弟子のフランセスク・ベレンゲル・イ・メストレスにより設計されたものであった。この建物は1963年以来、ガウディ・ハウス博物館として使われている。
 また、グエルの意図とは異なり、ガウディは住宅地ではなく個人的なカトリック的楽園をここにつくろうと意図したと指摘する識者もいる(Carandell and Vivas, 1998)。その真意はともかく、建築は1914年に中止され、1922年にはその土地は市役所が買うことになる。そして、1926年には公園として開放され、グエル公園と命名される。
 グエル公園のデザインはモダニズムの影響を強く受けている。それは、地域アイデンティティと地域プライドを強く意識する考え方も有していた。ガウディはこの公園を設計するうえで、カタロニアを象徴する要素や宗教的なものなどをデザインとして取り入れた。この公園を大きく特徴づけるベンチは、ガウディではなくジョゼップ・マリア・ジュジョールが設計したものである。
 それは、またガウディが生物的な形状に強い関心を抱いていた時期につくられた。幾何学的な分析から得られた新しい構造的解決法を、この公園設計において多く実践した。ガウディはグエル公園を設計するうえで、その建築家としての天分を思う存分発揮させ、その結果、他に類をみないような独創的な空間を創造することに成功したのである。そして、ガウディが設計した空間に、ジョゼップ・マリア・ジュジョールが見事な装飾を施した。グエル公園は、1984年に「ガウディの作品」として世界遺産に指定されるが、その価値はガウディだけで創造できたものではなく、ガウディとジュジョール、そして起業家であり思想家でもあったグエルの3人のコラボレーションがつくりあげた奇跡的な空間として捉えられるべきであろう。
 世界遺産に指定された1984年以降、グエル公園は大規模なリノベーションが行われ、ガウディのデザイン的意図を極力、将来に残せるような細かな事業が進められてきた。
 グエル公園は1999年には年間200万人の訪問客がいたが、この数字は2013年には900万人にも跳ね上がっている。その管理はバルセロナ市の環境緑地空間局(Medi Ambient Espais Verds of the Ajuntament de Barcelona)にて行われている。

【参考資料】
Alan Tate (2015), “Great City Parks” (second edition)
Carandell, J.P. and Vivas.P (1998), “Park Güell. Gaudi’s Utopia”

キーワード:

世界遺産,アントニ・ガウディ

グエル公園の基本情報:

  • 国/地域:スペイン
  • 州/県:カタルーニャ州
  • 市町村:バルセロナ市
  • 事業主体:エウセビ・グエル
  • 事業主体の分類:個人
  • デザイナー、プランナー:アントニ・ガウディ、ジョゼップ・マリア・ジュジョール
  • 開業年:1914年(完成年)
  • 再開業年:1926

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 ジャイメ・レルネル氏が著した『都市の鍼治療』に次のような文章がある。

「改めて私が言うことではないが、世界の重要な都市の多くは天才によって、生命が吹き込まれてきた。イタリアの数多くの都市は、ルネッサンスの偉大な天才達、例えばミケランジェロ、ダビンチ、ティシアノ、ボッチェリなどによって生命が刻み込まれたのである。
 しかし、それらの都市に比べても、バルセロナという都市に生命を刻み込んだ天才には適わない。ガウディのような天才による作品に彩られる都市はめったにない。バルセロナにあるガウディの作品は実はあまり多くない。グエル公園、ミラ邸、サグラダ・ファミリア教会、バトリョ邸、ビセン邸。
 それでもバルセロナはガウディという天才の命が息づいている。彼はバルセロナ市内のどこにでも存在しているようで、彼とまったく関係のない建築においても彼の影がうかがえるようである。そして、私が贔屓するバルセロナの天才がドメネクであるにも関わらず。」

 バルセロナにおいて、ガウディの作品はまさに「都市の鍼治療」のようなツボ的な効果を及ぼしている。ガウディの作品があるところは、バルセロナの都市のイメージを人々が思い描く際にツボのような役割を担っているし、その周辺の地区も活性化する。そして、レルネル氏が指摘するように、ガウディの建築はドメネクを始めとしたモデルニスモの他の建築家をも大きく刺激し、結果としてバルセロナという都市のアイデンティティを強烈に醸成させることになる。
 レルネル氏の言説に多少、付け加えさせてもらうと、ガウディの作品で彩られる都市は世界中でバルセロナとそして周辺部に集中しているだけでなく、他にはないということだ。したがって、ガウディといえばバルセロナ、バルセロナといえばガウディといった関係性が成立している。それは、バルセロナという都市のみがガウディという天才のアイデンティティを独占できるということを意味している。このように都市が天才建築家をそのアイデンティティとして独占的に獲得できている事例は、他にもベルリンのシュパイヤー、ウィーンのオットー・ワグナー、ブリュッセルのヴィクトール・オルタなどがあるが、その意匠のユニークさ、オリジナリティ、規模の大きさを考えるとガウディのバルセロナには匹敵しない。サグラダ・ファミリア、グエル公園、カサ・ミラ、カサ・バトリョという圧倒的な存在感を有する建築群は、バルセロナという都市にまさしく「生命を吹き込んでいる」。
 このバルセロナの事例からも理解できるように、その都市と関係性の強い天才は、その都市のアイデンティティを発露させることができる。グエル公園もまさにバルセロナの強烈なアイデンティティの一つとして絶妙な「ツボ」として位置づけられる。

類似事例:

009 ツォルフェライン
043 ラベット・パーク
055 ビルバオ・グッゲンハイム美術館
081 フンデルトヴァッサー・ハウス
085 マグデブルクの「緑の砦」
158 ベルリン市立ユダヤ博物館
280 アンティランマキの地区保全
289 ドイツの森
・ ノイヤー・ツォールホフ・ビルディング、デュッセルドルフ(ドイツ)
・ グッゲンハイム美術館、ニューヨーク(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)
・ 科学博物館、ヴォルフスブルク(ドイツ)
・ サグラダ・ファミリア、バルセロナ(スペイン)
・ カサ・ミラ、バルセロナ(スペイン)
・ カサ・バトジョ、バルセロナ(スペイン)
・ サンパウ病院、バルセロナ(スペイン)
・ クライスラー・ビル、ニューヨーク(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)
・ エッフェル塔、パリ(フランス)
・ 金門橋、サンフランシスコ(カリフォルニア州、アメリカ合衆国)
・ デンバー美術館、デンバー(コロラド州、アメリカ合衆国)
・ 舞州工場、大阪市(大阪)
・ 踊るビル、プラハ(チェコ)
・ ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール、ロスアンジェルス(カリフォルニア州、アメリカ合衆国)
・ オンタリオ美術館、オンタリオ(カナダ)
・ スペース・ニードル、シアトル(ワシントン州、アメリカ合衆国)
・ EPM博物館、シアトル(ワシントン州、アメリカ合衆国)
・ ヴァルトシュピラーレ集合住宅、ダルムシュタット(ドイツ)
・ クンストハウス・ウィーン、ウィーン(オーストリア)
・ クッヒルバウアー塔、アーベンスベルク(ドイツ)
・ ロナルド・マクドナルド・ハウス病院、エッセン(ドイツ)