第8回

Tenki Report: case.8

 子どもの頃から自立心旺盛だった伊藤さん(仮名)。地元の短大を卒業すると、東京の会社に就職し、念願だった一人暮らしを始めた。「目標が定まると、それに向かって動かずにはいられないタイプ」。そう本人が自己分析するとおり、やりたいことが見つかるたびに仕事や住む場所を変えて、やりたいことを実現してきた。

 人生の転機が訪れたのは40代前半。外資系企業のマーケティング部門でバリバリ働いていたとき、老後のために必死に働く生き方に疑問を感じ、「もっと自分の好きな仕事をしながら、細く長く収入を得られる道はないか」と模索し始めたのである。51歳の現在は、生まれ故郷に戻って独立し、アートを通じた社会貢献活動に従事している。

 これからの人生を真剣に考えた結果、地方での暮らしを選んだ伊藤さんに、現在に至るまでの道のりをインタビューした。

早く親元を離れたい一心で、
アルバイトに精を出した学生時代

 九州出身の伊藤さんは、自営業を営む両親と、長女であるご本人、そして9歳下の弟の4人家族。弟とは歳が離れていたこともあり、「幼少期は一人っ子のように育ち、自己主張の強い子ども」だったようだ。中学生のときに演劇に出合い、高校を卒業するまで演劇中心の生活を送っていた。

 高校生の頃からすでに、「将来は東京で一人暮らしをする」と心に決めていたという。元々、自立心が強かったことに加え、「家が厳しかったので、早く親元から離れたかった」のが理由だ。しつけはそれほどでもなかったが、「門限が厳しかった」と伊藤さん。高校のときは夕方5時、短大のときは夜10時が門限で、もちろん外泊も禁止。「当時はバブルで友人たちはみんな浮かれていたのに、私だけが早く家に帰らなくてはならない理由が分からず納得がいかなかった」と伊藤さんは振り返る。

 大学進学を機に東京に出たかったけれど、経済的な事情から地元の短期大学に進学した。当時(1989年)はまだ、女性は結婚すると仕事を辞め、家庭に入るのが一般的。親としては、「女の子にお金をかけて四年大学に通わせるよりも、短大で十分」という考え方が根強く、四大よりも短大のほうが女性の進学先として人気が高い時代だった。

 当時、ワープロスキルやビジネスマナーなどの実践スキルを学べる学科として秘書科があった。「早く社会に出て働きたい」と、伊藤さんは秘書科を専攻。レンタルビデオ店や喫茶店などのアルバイトでお金を貯めながら、両親の助けを借りずに東京に出ようと画策していた。

寮付きの会社へ就職し、
念願の東京一人暮らし

 就職がその一大チャンスだった。伊藤さんは、東京で生活するための足掛かりとして、寮付きの会社に絞って就職活動を始めた。自営業を営む両親の苦労を見て育った反動から、毎月お給料をもらえるサラリーマンには憧れがあったという

「正直言って、会社はどこでもよかったんです」と伊藤さん。バブル期で売り手市場だったのを幸いに、大した企業研究もせずに「東京・寮有」の条件で会社を片っ端から受けていったところ、金融関係の会社が興味を示してくれた。伊藤さんは迷わずその会社に入社を決めた。

 配属されたのは人事部で、学生のリクルーティングを担当することになった。バブル期の金融会社はまさにイケイケ状態。当時は、有望な学生を囲い込むための「学生接待」なるものが行われており、伊藤さんは社会人1年目にして、毎晩のように六本木で学生をもてなす役割を仰せつかった。

「カルチャーショックでしたね。田舎のすごく厳しい家庭に育って、夜飲みに行く経験もないのに、いきなり会社のお金で寿司に連れて行かれるわ、しゃぶしゃぶを食べに連れられるわ、豪遊のおこぼれにあずかったわけです。自分と歳の変わらない大学生が相手だったので、ちゃんと仕事したという感じもなかったです」

 ようやくデスクワークの実感を持てたのは、2年目で総務部に異動し、給与計算など“堅い仕事”をするようになってからだ。伝票を手書きする仕事のやり方に疑問を感じ、ワープロでの作業を提案するなど業務改善にも積極的だった。

「言われたとおりにやるんじゃなくて、『こうやりましょう』『ああやりましょう』と言っていたので、周りからは煙たがられていたかもしれません」

やりたいことを
すぐにやれる状態を求めて、
ワーキングホリデーへ

 その会社は2年で辞めた。働いて貯めたお金で、ワーキングホリデーの制度を使ってカナダに行くことにしたのだ。ワーキングホリデーとは、海外で一定期間、特別ビザで働きながら滞在できる制度のことだ。

 きっかけは海外旅行だった。大学の卒業旅行で初めてアメリカを訪れてから、年に1、2回は友人と海外へ旅行するようになった。しかし、英語が話せない伊藤さんは、英語が話せる友人と一緒でなければ海外旅行に行けない。そのことに窮屈さを感じていた。
 そんなとき、「自分が行きたいときに行けない状態は嫌だから、英語を勉強しよう」と思い立ったという。英会話学校に高い月謝を払うくらいなら、同じお金で海外に行ったほうが習得は早いに違いない。そう考えて、ワーキングホリデーによるカナダ行きを選択した。

 最初の3カ月間の英会話学校とホームスティ先だけを手配し、「そのあとは現地でどうにかなるだろう」と楽観的な気持ちで現地に向かった。が、そう上手くはいかなかった。3カ月経っても英語は思うほど上達しなかったのだ。生活のためにマフィン屋でアルバイトを始めたものの、お客さんの注文が理解できず、子どもの客からは馬鹿にされて、店に立つのが怖くなってしまった。

 ただ、それでも現地で友達が増えるにつれ、英語が話せるようになり、仕事も支障なくこなせるようになった。最後に働いていた店からは、「就労ビザを出すから残る?」と誘われたが、予定通り1年で帰国することにした。

「現地の日本人コミュニティは居心地よかったのですが、そのうち刺激がなくなって退屈するだろうなと思ったからです。それに、私はまだ日本でちゃんと仕事をしたことがありませんでした。日本で仕事をするほうが勉強になる、と思って日本に帰りました」

自分の担当業務がほしい。
でも、自信がなくてどっちつかず

 23歳でカナダから帰国。日本での住まいを引き払っていたため、友達の家に転がり込み、そこで就職活動を始めた。就職情報誌で「イベント制作」という仕事を見つけ、「一から企画して運営する仕事があるなんて面白そう」と興味を持った。

 イベント制作会社に入社すると、アシスタント業務を任された。といっても、イベントに関わる業務はあまりなく、ちょっとした使いやお茶出し、資料や伝票の整理などが主な仕事だった。「もっと責任ある仕事がしたい」と願い出ても、「あなたには無理だから」と言われるだけで、聞き入れられなかったという。

「当時は、女性を育てようという会社の意思は感じられませんでした。女性はそのうち結婚して辞めるだろう、というのが周りの認識だったと思うんです。それに対して、私もラクしてお給料がもらえる状態に甘んじていたところがありました。職場は居心地がよかったですから」

 この会社に長くいても、使いっ走りで終わりそうだ。それでいいのだろうか――。モヤモヤした気持ちを抱えていたとき、入社6年目のとき、会社が別のグループ会社と統合されることになった。「今がこのぬるま湯から抜け出すタイミングかもしれない」。そう感じた伊藤さんは、次の職場も決めないまま、会社を辞めた。

 幸いなことに、取引先だったイベント制作会社から声がかかり、転職することができた。前職より少しは責任ある仕事を任されるようになったものの、ここでもアシスタントであることには変わりなかった。

「自分の担当といえる仕事が欲しい」。漠然とした思いはあっても、今ほど働く女性へのサポートが一般的ではなかった時代である。仕事と家庭を両立させる自信はなかった。当時、結婚したばかりの夫も伊藤さんが家庭に入ることを望んでいて、どっちつかずの状態だった。

「このままではよくないだろうな」と思いつつも、どうすればいいかわからなかったという伊藤さん。「ずるずる会社にいてもしょうがない」という思いが沸々と湧き出してきて、仲の良かった女性の同僚が辞職するのに合わせて、3年半勤めた会社を辞めた。31歳だった。

いったん専業主婦になるも、
半年で派遣社員として復帰

 カナダから帰国後の20代は、自分の置かれた状況に漠然とした不満や不安を感じながら、「このままではよくない」と会社を辞める事態が2度続けて起きている。この時期を振り返って伊藤さんはこう話す。

「私は目標が見つかると強いんですが、それが見つからないと、フラストレーションがどんどん溜まっていくんです。私が20代の頃は、結婚や出産など女性特有の選択肢がたくさんあるにもかかわらず、仕事と両立させる選択肢がまだなかったので、何を選べばいいか分からずに迷っていたんだと思います。精神的にきつかった時期ですね」

 さて、会社を辞めた伊藤さんは、夫の希望もあって専業主婦になった。しかし、その生活は半年しか続かなかった。なぜなら、子どもの頃から自立心の強い伊藤さんが、他人のお金に頼って生活することに耐えられなかったからだ。

「夫に悪気はないのですが、『今日、何してたの?』という言葉すら嫌味に聞こえてきて。どうせ暇だと思ってるんでしょ、みたいな(笑)。精神衛生上、どんどん悪い方向に向かっていったので、『働かせてほしい』と夫に頼みました」

「派遣ならいいよ」と夫が同意してくれたので、派遣会社に登録した。いくつか紹介を受けた中から、外資系会社のセールスプロモーションのアシスタント業務に就くことになった。店頭にあるPOPやディスプレイの発注、社内調整などが主な仕事だった。そのうち、正社員に誘われて、正社員になった。

やりたい仕事を見つけ、
上司に直談判

 伊藤さんには、その会社でやってみたい仕事があった。マーケティングの仕事だ。

「外資メーカーのマーケティング部門って、私からすると一番興味のあるところ。データ分析だけでなく、それをもとにテレビCMの制作や商品開発にも重要な役割を果たしています。私がそれまで関わってきたイベント制作も、大元にはマーケティング部門の立てた戦略や方針があるわけで、その裏側を見られるという意味でも興味がありました」

 けれども、伊藤さんにはマーケティングの経験がない。「希望しても無理だろう」とあきらめかけていたところ、マーケティング部の部長から、「部門全体をサポートするアシスタントとして来ませんか?」と誘われたのだ。喜んで異動した。

 一方で、社会に出てからずっとアシスタント歴を更新し続けていることに、疑問や焦りを感じ始めていた。このとき伊藤さんは32歳。年齢的にもキャリア的にも、いつまでアシスタントをやり続けるべきなのか。「自分の担当業務が欲しい」という思いはますます強くなっていった。

 そして、ついに上司に直談判した。「マーケッターとしてブランドを担当するのは難しくても、アシスタントとして関わっていた広報の仕事なら自分に向いていると思うし、やってみたい」。

 当時、その会社には広報部門は存在していなかった。各ブランド担当は商品開発やCM制作に忙しく、広報にまで手が回らない状態だった。それを一手に引き受けるような役割を自分が担いたい、と働きかけたのだ。

 伊藤さんの申し出が直接影響したかどうかは分からないが、その後、広報を含む対メディア業務を担うチームが発足し、伊藤さんは広報担当として加わることになった。このときのことを振り返って、「久しぶりに自分がやりたいものが決まって、自分から積極的に動いた時期でしたね」と伊藤さんは話す。

上司のアドバイスで、
マーケッターとしての
一歩を踏み出す

 ところが、新設されたメディアチームは、結果が伴わず、1年で解散となった。「ここが外資のドライなところ」(伊藤さん)だが、上司とマーケティング部のトップが会社を去ることになった。伊藤さんには、従来のアシスタント業務に戻るか、マーケッターとしてブランドを担当するかの2つの選択肢が提示された。

 また元のアシスタント業務に戻るのは本意ではないし、マーケティング経験ゼロの自分がブランドを担当するのは大変そう。どちらも興味が持てなかった伊藤さんは、会社を辞めるつもりだった。しかし、上司から「会社を辞めることはいつでもできる。ブランド担当のほうがキャリア的にはいい」とアドバイスされ、アシスタントブランドマネジャーに就くことにした。

「これは自分で望んだというより、第三者から与えられた機会でしたが、結果としてその経験が今でも生きているので、私のキャリアでは一番大きな転機だったと思います」

 とはいえ、仕事は想像以上に大変だった。それまでは職場で英語を使う場面はなかったが、このとき外国人の上司のもとで英語を使う必要に迫られたことも追い打ちをかけた。

「ブランドマネジャーは皆、そうそうたる大学を出て、そうそうたるキャリアを積んで、帰国子女が多いから英語もペラペラ。私はカナダに1年間いたとはいえ、旅行で使う英語と仕事で使う英語は違います。最初の2、3年は英語と仕事内容に追いつくのに精一杯でした」

 やがて、コミュニケーションやプレゼンのスキルが上達するにつれ、結果も伴うようになり、次第に仕事が好きになっていった。年に2回の人事レビューを通して、「自分はどうありたいのか、そのために何をするのか」を考える習慣を叩き込まれ、仕事に対する姿勢も前向きに変わった。また、「日本の企業とは違い、ロジック重視で理不尽なことはあまりないし、年齢、性別、国籍に関係なくフラットに評価してもらえる環境」は伊藤さんにとって居心地がよかったようだ。

 その会社には42歳まで11年間在籍した。「大きなプロジェクトを担当して、会社でやりたいことをやりきった感があったことと、常に忙しかったのと、想像を絶するプレッシャーがあったから」というのが辞めた理由だ。

「感覚としては、水の入った狭いアクリルボックスに足のつかない状態で入れられて、バタバタと水面から顔を出して、息が吸えるようになったと思ったら、また上から水を足される。そんなことの連続です。出来るようになる喜びは感じられるけれど、長くは続けられないなと思っていました」

老後のために働く虚しさが、
生き方を見直すきっかけに

 やっぱり私は広報の仕事がしたい。そんな想いもあり、広報も含めたプロモーションの担当者を募集していた外資系の別の会社に転職した。ここではやりたい仕事ができて楽しかったし、人間関係も良好だった。前職とは違って、時間的な余裕ができた。それによって、「自分は将来何をしたいのか。そのために今、何をやるべきなのか」を立ち止まって考えるようになったという。

 実はこのとき伊藤さんは独身だった。前職でアシスタントブランドマネジャーになった頃、価値観の違いから夫と離婚していたのだ。その後、再婚の意思がなかったわけではないが、「そこまで至る人との出会いがなかったのと、仕事に追われてチャンスがありませんでした」と伊藤さんは話す。

 というわけで独身に戻った伊藤さん。30代後半あたりから、老後のためにマンションを買うとかお金をいくら貯めるとか、そういう話を女友達とするようになった。「親の介護もあるし、頑張って仕事しなきゃ」。そんなふうに話していると、ふと虚しくなる瞬間があったという。

「自分の老後と親の介護代のために働いているのって、不毛だなと思い始めたんです。老後のお金のために働くんじゃなくて、自分の生きがいや好きなことをしながら、細く長く収入を得て生きていく方法はないかなと考えるようになりました。東京では難しいかもしれないけれど、地方だったらそんな生き方ができるかもしれない。そう思ったら、気が楽になりました」

 自分が好きで、長く続けていけることって何だろう。そこで浮かんだのが、アートだった。中高生のときは演劇に夢中だった。芸術文化に触れる時間が好きで、大人になってからは美術館に頻繁に足を運んでいる。

「アートだったら、飽きっぽい私でも長続きするかもしれない。アートを仕事にできるかどうかは分からないけれど、ちゃんと学んでみよう」。そんな気持ちが湧いてきた。

好きな仕事への出合いと、
地方への移住

 伊藤さんは、仕事を続けながら、関西にある大学の通信制大学で芸術史を学び始めた。平日は仕事、休日はほぼ図書館にこもって勉強する日々。仕事との両立には苦労もあったのではと思いきや、「好きなことだし、気分転換になるので、あまり苦にはならなかった」と話す。

 学びの中で出合ったのが、芸術文化を媒介に地域活性化を図る「アートプロジェクト」という活動だった。アートプロジェクトには、アーティストや地域との交渉、進行管理などマネジメントの要素が必要と知り、「これなら自分が仕事で培ってきたスキルを活かして、芸術や地域に貢献できるかもしれない」と考えた。大学を卒業すると、東京都によるアートプロジェクトの勉強会に1年間参加した。

 そして47歳のとき、ついに会社を辞めて、アートの仕事に飛び込んだ。九州エリアを活動拠点にアートプロジェクトを展開するNPO法人の求人を見つけて応募し採用されたのだ。転職を機に、東京の住まいを引き払い、引っ越した。

 そのNPO法人では、芸術祭やアートイベントの開催のほか、地元作家の作品を販売するセレクトショップや、作品と一緒に泊まれる宿を運営していた。伊藤さんは、NPO法人の広報やセレクトショップのバイヤー、宿のプロモーションを担当。ほかにも、新しいお土産を作家と地元企業のコラボレーションで開発したり、作品を巡る観光ツアーを地元の旅行会社と一緒に開発するなど、いろんな仕事を経験した。

 5年ほどNPO法人で働いたのち、念願だった独立を果たした。

 2022年の春からは、生まれ故郷に戻り、フリーランスでアートプロジェクトに関わる仕事をしている。最近では、アーティストが地域に滞在しながらアート作品を制作するアーティスト・イン・レジデンスにコーディネーターとして携わり、アーティストのサポートや、作品発表の展覧会の広報活動などを行っている。

助け合いの文化が根付く土地で、
第二の人生をスタート

 伊藤さんが地方で暮らすと決めたとき、一番心配だったのは、その土地に馴染めるかどうか、ということだった。

「東京から来たというだけで警戒されるのではないか、この年で独身だというだけで後ろ指を指されるのではないか、と心配していました。でも、それらは全くの杞憂でした。日本を代表する観光地であり、留学生が多い大学もありますから、外国人をはじめいろんなバックグラウンドの人が集まっているんです。私が東京から来ようが、独身であろうが、関係なかったですね」

 地方での生活を考えるきっかけとなった「老後の不安」については、どう感じているのだろうか。
「「歳を取って足腰が弱るから病院に行くタクシーを貯めておかなきゃ」と友人が言うのを聞いて、そこまで心配しなければいけないのか、と衝撃を受けました。でも地方に来たら、いまだに助け合いの文化が残っています。具合の悪そうなおばあさんがいたら、絶対に放っておかないと思います。東京で働いていた頃よりも収入は減りましたが、安心をお金で買い続けなくてもいいので、老後の不安はなくなりました」

 お金があれば大抵の問題は解決できるけれど、お金のためだけに頑張って働く人生は虚しい。それよりも、自分が本当にやりたいことをやりながら、細々とでいいから、人とのつながりの中で安心できる暮らしがしたい――。

 そんな暮らしを地方で手に入れた。伊藤さんは今、人生の第二章を始めたばかりだ。

インタビューを終えて

 伊藤さんとは既知の中であったが、実は40代半ば、団塊ジュニア世代と誤解していた。インタビューを通じて年齢を知ったものの、今の若者にとって参考になる話だと確信できた。自己の目標と行動の変化、言わば転機が様々な形で訪れる伊藤さん。その中で辿り着いたのは、文中の言葉を引用すると「自分の老後と親の介護代のために働いているのって、不毛だなと思い始めたんです。老後のお金のために働くんじゃなくて、自分の生きがいや好きなことをしながら、細く長く収入を得て生きていく方法はないかなと考えるようになりました。東京では難しいかもしれないけれど、地方だったらそんな生き方ができるかもしれない。そう思ったら、気が楽になりました」という考え方。外資系企業のブランドマネジャーは今も脚光を浴びる仕事である。そういった仕事よりも、自分の生きがいや好きなことの方を優先させるという選択をした伊藤さん。若い頃の東京へのこだわりもそれとともに変化する。何を優先させて考えるか、彼女の半生から得られる示唆は多い。
 伊藤さんのインタビューの中で特に印象的な言葉は「女性は絶対選択肢が男性より多いので、社会からのプレッシャーもあるから、そこと付き合ってかなきゃいけないのが、結婚っていうのが一つなくなり、出産っていうのが一つなくなりで、寂しいけど、私は同じくらい肩の荷が下りていく感覚があったっていうのはあります。あとは自分の意思だけで、周りにヤイヤイ言われず、自分の意思だけで選んでいけるっていう身軽さ…」。結婚や出産を『肩の荷』と表現されたことが特に印象的であった。
 将来的な不安(育児・教育や親や自分の老後)の少ない、出来ればない社会となり、選択の自由が保障されるといいなと強く感じる。将来の不安のために選択肢が限られていては、若者の自由、自己実現はどうしても遠いものとなる。