第3回

Tenki Report: case.3

 大学を卒業したら、就職して結婚……。学生時代は“よくある一般的な人生”を漠然と思い描いていたものの、いざ蓋を開けてみたら、大学中退、地元を離れて上京、超一流ホテルのラウンジ勤務を経て、歌舞伎町のホストに転身……、と波乱万丈な半生を送ってきた高橋さん(仮名)。

 人生に充実感を得られずに刹那的になったり、仕事でのストレスや罪悪感に苦しんだりした時期もあったが、自分のやりたいことを見つけた今は、新たにビジネスを立ち上げるべく奔走中だ。「あの頃があったから今がある」と語る高橋さんに、「人生を賭けて挑戦したい」と思える仕事に出合うまでの歩みを伺った。

父親とのキャッチボールに
憧れた幼少期

 関西出身の高橋さんは、教育関係のお仕事の父と母、兄の4人家族。幼少期の思い出といえば、「いつもお兄ちゃんに遊んでもらっていた」ことだ。12歳年上の兄は、幼い高橋さんをお風呂に入れたり、外で一緒に遊んだり、とても可愛がってくれた。

 一方、忙しく不在がちだった父親とは、一緒に遊んだ記憶はあまりない。だから幼稚園の頃までは、兄のことを「お父さん」だと思っていた。では、父親のことはどうかというと、「『ひげの生えているこの人は誰だろう?』と不思議でした」と高橋さんは振り返る。

 大人になった今でこそ父親のことは尊敬しているが、「幼少期から大学生の頃までは父との関係はあまりよくありませんでした」と高橋さん。
「幼い頃は、一緒にキャッチボールをしてくれる体育会系のお父さんに憧れがありました。だから僕は父を反面教師にしていて、『教育関係の仕事には進みたくない』と思っていたんです」

 母親のことは好きだった。ただ、その母親は、高橋さんが中学生の頃、カメラマンを目指して師匠に弟子入りし、家を空けがちになった。また、大好きな兄も音楽関係の活動に忙しく、家族全員が家でそろう機会はめっきり減った。

「今思えば『面白い家族』なんでしょう。でも、あの頃は『あんま家に人がおらんな』くらいにしか思ってなかったです」

 高橋さん自身は、椅子に座って勉強するのが苦手な子どもで、小・中学生の頃は勉強が嫌いだった。勉強よりも外で遊ぶことを好んだ。学校の成績も芳しくなかったが、高校受験を前にひょんなことからスイッチが入ると、人が変わったように猛勉強を始めた。
 家の近くに比較的偏差値の高い高校があり、「家から近いし、目標としても丁度いいから、そこに入りたい」と思ったからだ。両親に頼み込んで塾に通わせてもらい、必死に勉強して見事に合格した。

「面白い」と思えることが
見つからない学生時代

 高校生の頃は、「ちょっと悪い高校」に進学した中学時代の同級生とよくつるんでいた。といっても、子どものかわいいお遊びのようなもので、警察沙汰になるような悪さはしなかった。

「そうなったら親がうるさいからです。特に母親は過保護なところがあって、少しでも僕の帰りが遅くなると電話をかけてくるんです。友達と一緒のときに母親から電話がかかってくるから、とても恥ずかしかったですね。親への反抗心からわざと家に帰らなかったこともありました」

 部活は、中学のときに兄の影響で始めたバスケを高校でも続けていた。ところが、高校2年生のとき、急にバスケをやめてボクシングジムに通い始めた。

「当時、ヤンキーの友達がボクシングをやっていたんです。僕、ヤンキーに憧れていた時期があって、僕もボクシングをやりたいと思ったんですよね。でも、やってみたらあまり好きじゃなかったみたいで、1年で飽きてやめてしまいました」

 高校3年生になって大学受験が目前に迫っても、「将来のことは一切考えてなかった」という。地元の近くの大学の経済学部を受験したのは、特にそこで学びたいことがあったからではなく、その大学が公募推薦を受け付けていたからだった。「公募推薦なら秋のうちに結果が出ます。入試を早く終わらせて、高校最後の年を思い切り遊びたかったので、そこを受けました」と高橋さん。父親からは「なぜその大学にしたのか」と厳しく問い詰められたが、「経済を勉強したいから」という理由で押し通した。

「その瞬間が楽しければよかったんです。それに、それまで失敗らしい失敗をしたことがなかったので、『自分はいざとなればやれる』『なんとかなる』という根拠のない自信もありました。だから余計に、将来のことを真面目に考えようとしなかったのかもしれません。将来のことをもっとちゃんと考えていたら、その後の人生も変わっていたでしょうね」

 大学生になっても、高校時代の延長にしか感じられず、充実感は得られなかった。「大学生活を面白いと思ったことは一度もありません」と高橋さん。授業にも熱が入らず、20歳になるとお酒を友達と飲み明かす毎日。「飲み会をしたところで何も生まれませんが、その場は楽しいからそれでいい、と思っていました」と高橋さんは話す。

自分の将来に危機感。
大学中退·上京して自立を決意

 最初の転機は、大学4年のときに訪れた。卒業単位が足りず、留年が確定。そんなとき、ふと思ったという。自分はこれまで、ただなんとなく生きてきた。このまま親元で不自由なく暮らし、世の中のことも知らないまま、大学を卒業し、何の動機もなく就職していいのだろうか――。

 将来に危機感を抱いた高橋さんは、大学中退を決意する。環境を大きく変えるために、親元を離れ、上京して自立することに決めたのだ。

 人と話すことが好きで、接客業に興味があった高橋さん。自立のための手段として思いついたのが、ホテルで働くことだった。「どうせホテルで働くなら、知名度の高い、トップレベルのホテルで働こう」。そう思って選んだのが東京の超一流ホテルだ。偶然にもそのホテルのラウンジで人材募集があるのを見つけ、そこで職を得ることができた。

 両親に退学の意思を告げると、両親はひどく驚いた様子だったが、「東京の超一流ホテルで働く」と聞いて少しは安心したようだった。「自分で決めたのなら頑張りなさい」と応援してくれた。

 そのホテルでは2年ほど働いた。ホテルでの接客の仕事は楽しかったが、「もっと実力が問われる世界で自分を試してみたい」という思いが湧き上がってきた。

 そこで、次に狙いを定めたのが、夜の世界、新宿の歌舞伎町だった。「テレビドラマに出てくるようなホストの仕事を、人生で一度はやってみたい」と前々から気になっていたという高橋さん。一旦、興味のスイッチが入ると、「この目で確かめたい!」という欲求が抑えられなくなる。インターネットでホストクラブを検索して、リストの最初に表示された店に飛び込んだ。

売れるホストが抱いていた
罪悪感とは

 夜の世界に飛び込んでみて分かったのは、「売上数字でホストの序列が決まる」ということだった。成功すれば人も羨む華やかな世界が待っているが、誰もがその地位にたどり着けるわけではない。高橋さんも売れるまでは苦労が多かったようで、「毎月の生活費を稼ぐので精一杯でした」と振り返る。
1年ほど経つと、人気が出始めて、売上が上がるようになった。売上が上位のホストは店のホームぺージに顔写真が掲載される。実はこのとき、ホテルの仕事を辞めて歌舞伎町で働いていることをまだ両親に話してなかった。店のホームページに掲載されたら、知らせようと決めていた。

 ホストとして働いていることを両親に告げると、翌々日には母親が店にやってきた。

「カメラマンという職業柄か、母はフットワークが軽くて順応性も高いんです。お店ではいろんな人がついてしゃべってくれていましたが、『皆さん、割といい人たちじゃない』と気に入ったようでした。ホストの仕事も『人生経験の一つとして、やってみれば?』と言ってくれました」

 高橋さんに、売れるホストの条件をたずねてみると、「稼ぐ覚悟があるかどうかだと思います」。「楽に稼げる」と思ってホスト稼業に足を踏み入れる人が多いというが、現実はそう甘くはない。3カ月で7割の人が辞めていく厳しい世界だそうだ。

 では、高橋さんが意味する「稼ぐ覚悟」とは、どのようなものだろうか。

「言葉は悪いですが、お客さんを騙す覚悟、と言ってもいいかもしれません。お客さんは、ホストが自分のことを本気ではないと分かっていても、『もしかしたら本気で私のことを好きかも』と思いたい。そう思ってもらったほうがお金をつぎ込んでもらえるので、ホストはそのように仕向けるのですが、僕にはお客さんを騙している感覚が拭えずに、『自分は悪いことをしているのではないか』という罪悪感がずっとありました」

 ゆえに、ストレスも相当のものだったと振り返る。

ホスト時代の習慣を
次のビジネスの種に!

 ところが、あることをきっかけに、ホスト時代に抱いていた罪悪感から解放されることになる。それは、ホストを辞めた後、当時懇意にしていた客と連絡を取ったときのことだ。「あのとき本当はどう思っていた?」と聞いてみると、意外な答えが返ってきた。「騙された、とは思っていなかった。あの頃は普通に楽しくて、幸せだったよ」。

 ホストとして相手を不幸にするようなことはしていなかった。自分のやっていたことはそんなに悪ではなかった――。そう思えたことで、胸中に溜め込んでいた淀みが流れ、ようやく自分の将来のことや、自分の幸せを考えることができるようになったという。

 ホスト時代に話を戻すと、歌舞伎町で人気ホストになったものの、仕事にストレスを感じていた高橋さんは、そろそろ潮時だと感じていた。しかし、「ホストを辞めるのはいいが、自分に一体何が残るだろうか?」。そう考えていたときに、思い浮かんだのが「男性のメイク」だった。

 ホストになってからの新しい習慣に、メイクがあった。それまで自分で化粧したことなどなかったが、モテるためのメイクを独学で試行錯誤するうちに、メイクがどんどん面白くなっていった。ところが、化粧品は女性向けばかりで、男性向けのものはない。高橋さんも仕方なく女性用化粧品を購入して使っていたが、「最初はどれを買っていいか分からず、悩んだ」という。そうした経験から、「男性にも使いやすい化粧品を作りたい」と思うようになったのだ。

 高橋さんは27歳のとき、3年半働いたホストクラブを辞めると、今度は男性用メイクの世界に飛び込んだ。これが2度目の転機となった。

自分の人生にワクワク
できるようになった

 右も左も分からない状況の中、最初に助け舟をくれたのは母親だった。母親に男性用メイクの話をすると、知り合いの化粧品会社のA社長を紹介してくれたのだ。その会社では、客の要望に合わせた化粧品を少量から作っていて、品質はいいと評判だった。早速、A社長に面会し、「男性向けにこんな化粧品を作りたい」と直談判すると、試作品を作ってくれた。

 試作品は完成したものの、「いくらで、どうやって売るのか、事業としてどう成り立たせるのか」などの問題が残っていた。マーケティングや販売が未経験の高橋さんには分からないことだらけだ。そこで、まずは勉強のため、A社長に教えてもらった月1回の個人事業主向け勉強会に参加することにした。今もそこに通いながら起業のための勉強を続けている。

「今はSNSを使えば低コストで販売できるので、SNSで売っていこうと思っています。メイク動画の発信もしていきたいですね。SNSで売る場合には、『誰が紹介しているか』も重要なので、僕の説明に説得力を持たせるために、化粧品検定やコスメコンシェルジュの資格も取りました。動画制作に興味を持っている友人がいるので、その人の力も借りながら動き出しているところです」

「男性の美容意識が高まっている今、いい感じでこの業界に切り込んでいけたら、面白くなりそうな予感がしています。それでめちゃめちゃ稼いでやろう、とは思っていませんが、長く続けていきたいですね」

 プライベートでは、現時点では結婚は考えていない。「今は仕事に専念して、自分がやりたいことを形にしたい。4~5年後、30代半ばを目標に『これが自分の仕事』と言える状態にしたいと思っています。男性用化粧品が成功したら、他の事業も手掛けてみたいですね」と抱負を語る。

 大学中退から一流ホテルのラウンジスタッフ、歌舞伎町のホストへと働く環境を変え、働くことの意味を自ら問うてきた高橋さん。様々な経験を経てやりたい仕事を見つけ、それに一生を賭ける覚悟も持ち始めている。

 なにより、「人生に対してワクワクできるようになった」ことが自分でもうれしい。将来のことを考えることがこんなに楽しかったんだなぁ。そう語る高橋さんの目は、ただ前だけを向いている。

インタビューを終えて

 高橋さんは、インタビューの後、「自分を客観的に振り返るタイミングを作ってくださってありがとうございます」「誰かの刺激になってくれれば何よりです」と語られた。大学までのモヤモヤを、大学をやめることで、興味や関心を優先させて生きること、そして稼ぐ覚悟、次に自分の幸せを考えること、自分のやりたいことの模索へと転換していった。
 運よく今に繋がっているようにも思えるが、仮にそのステップが違う方向へと向かったり、一歩踏み外したりしたとしても、大学までの生き方とは異なる逞しさ、自らに正直に生きる力強さから、生き生きとした表情で今と向き合い、模索しているのではないかと思われる。冒頭の「誰かの刺激に」という言葉の意味は、彼自身が「自分の生き方が正解とは思えないが、興味関心や自分の幸せを考える先に見えてくるものがある」ということを伝えてくれている気がする。
 高橋さんは、現在も途上にある。29歳故、これからの道のりが長いことは間違いない。全く違う世界へと進むことも考えられなくもない。しかし、目標に向かって、人に会い、学び、知識と手段を練る彼の姿は魅力的そのものである。勿論、「世の中、そんなに甘くないよ」と思う方も大勢いらっしゃると思う。ただ、彼自身もその言葉を自分の中で反芻しながら、突き進んでいる。
 大学や企業に入ることで大いなる機会を獲得できることも事実であるが、そこに手応えを感じない場合も決して少なくない。高橋さんのように自分に正直に生きることは難しいことだと思うが、高橋さんからはその勇気の大切さを教えてもらえた気がする。