第4回

Tenki Report: case.4

 教員になるつもりは全くなかったのに、周りの勧めで小学校の先生になったら、適性を発揮して、仕事にやりがいも感じた。けれども、職場環境に恵まれず、体調を崩して6年で退職。その後、一般企業への転職、フリーターを経て、33歳の現在はワークショップのファシリテーションが主な仕事だ。

 教員時代と比べると、今の生活は決して安定しているわけではない。けれども、「いろんな経験を通して得た仕事のスキルや勘所、自信があるので、将来への不安はあまり感じない」と中川さん(仮名)は話す。

 好きな仕事ができていることが幸せ――。そう思えるようになるまでの葛藤や挫折、挑戦、選択と決断について伺った。

勉強好きだった子ども時代。
高校進学で燃え尽き症候群に

 中川さんは、関西で育った。広告会社に勤める父親と専業主婦の母親、ご本人(長女)そして弟の4人家族だ。「子どものうちから本を読ませたい」と考える母親の教育方針のもと、本を読むのが大好きな子どもに育った。

「小学生の頃は、2週間に1度は図書館に通っていました。そのたびに家族の貸し出しカードをフル活用して、24冊を借りるんです。そんな生活を6年間。だから、勉強では苦労しませんでした」と中川さん。成績優秀かつ活発な性格のため、クラスでも目立つ存在だった。

 ところが、地元の公立中学校に進むと、「やんちゃで派手な子たち」が周りにいる中で、中川さんの活発な部分は影を潜めていった。「思春期になって周りの目が気になり始めたんでしょうね。あまり注目を浴びるようなことはせず、わりと大人しくして過ごしていました」と中川さんは振り返る。

 好きだった勉強を頑張って、上位の希望校に進学したものの、燃え尽き症候群に襲われ、高校では勉強がまったく手に付かなくなった。成績も学年の中位から下位に落ちたが、「大して気にならなかった」という。

 代わりに夢中になったのは、中学校で始めた吹奏楽部でクラリネットを吹くこと。受験勉強をそっちのけで部活動に励み、「進路のことはあまり考えていなかった」という。「行くなら“関関同立”がいい」とオープンキャンパスに参加したが、行きたい大学は見つからなかった。

美大卒の両親の影響で
絵本の仕事に興味を持つ

 そんなとき、進路の決定に間接的に影響を与えたのは、両親の存在だった。

 中川さんの両親は共に美大卒。中川さんが生まれる前は母親も広告関係の仕事をしており、家の中には両親が描いたイラストや絵が至る所に飾られていたという。「両親は絵が描ける人なんだ、と幼な心に理解していましたし、一緒にお絵描きすることもあったので、私も絵を描くことは好きでした」と中川さん。

 かといって、美大への進学を勧められたわけではない。

「両親はいつも私の自由にさせてくれました。私も美大に行くほどの強い想いはなかったですし。ただ、両親からデザインの話を聞くうちに興味が湧いてきて、絵本に携わる仕事に就けたらいいなと思うようになりました」

 そこで、「絵本」「子ども」のキーワードで検索して見つけたのが、関西の教育関連の学部だった。「面白そう!」と興味を惹かれた中川さんは、猛然と受験勉強を始めたのだ。

 スイッチが入ると、あとは早かった。受験を早く終わらせたい一心で、秋にはすべてが終わる公募推薦に狙いを定めた。しかも、受験科目は国語の英語の2科目のみ。国語は得意なので特に問題はなし。英語は過去数年分の過去問をひたすら解いて勉強し、見事、合格したのである。

学業よりもアルバイトに
夢中の学生生活

 合格者が集うコミュニティサイトを通して入学前から仲の良い友達ができたり、同じ興味関心を持ち親近感を抱きやすい仲間が集まったこともあって、「大学生活はスムーズにスタートできた」と中川さん。気心の知れた安心できるコミュニティーの中で、「中学高校では大人しかった自分が、大学でまた本来の活発さを取り戻した感覚があります」と話す。

 学生生活の中心には、飲食店でのアルバイトがあった。そこで多くのことを学んだという。

「良質なサービスをすればするほどお客さんから評価され、スタッフからも認められます。自信になりましたし、自分の働きかけ次第で相手が変わるという仕事の面白さを知りました。スタッフの中には、自分の店を持ったり起業したりするような独立心の旺盛な人が多く、その人たちと密に関われたのは私の人生で財産になったと思います」

 一方、将来進みたい道はなかなか定まらなかった。「せっかく教育関連の学部に入ったのだから」と幼稚園や小学校の先生の免許を取得できるコースを選択したが、かといって教員になるつもりは全くなかった。

 それよりも、チームでコミュニケーションを取りながら何かを作り上げることに惹かれた。たまたま見たニュース番組で、あるアパレル会社の商品開発部が紹介されていたことがあった。メンバーが協力しながら試作品を作る様子を見て、興味を持った中川さんは、就活でその会社の面接を受けた。が、結果はダメだった。絵本作りに憧れて出版社にも挑戦したが、これも落ちた。

 次第に中川さんは、卒業後も飲食店のアルバイトを続けたいと考えるようになる。「飲食店でスタッフのみんなとチームワークよくお店を回していくことが楽しかった」からだ。

周りに説得されて
教員の道へ

 教員に舵を切ったのは、「小学校の先生に向いている」と大学の先生をはじめ周りから強く勧められたからだった。教員に興味はなかったものの、「マンション暮らしで周りの小さな子どもたちとよく遊んでいたので、子どもと関わるのは得意でした」と中川さん。また、中学時代からいろんな家庭環境の友達を見てきた経験から、「子どもに夢を抱きすぎず、現実を受け入れる肝の据わったところがある、というのが教員を勧められた理由のようです」と話す。

 ゼミの先生から「教員採用試験を受けるだけ受けなさい」と言われて受けてみたら、受かった。「フリーターはいつでもできる。試験に受かったのだから教員をやってみたら」と周りに説得され、教員になることを決めた。「公務員は手堅いし、収入も安定しているから条件的にはいい」という打算も働いた。

 実際に教員になってみると、とてもやりがいのある仕事だと気づいたという。

「一生懸命やればやるほど成果が出ました。受け持った子どもたちが、一年後に自信に満ちて、自分のことを誇りに思いながら次の学年に上がっていくのを何度も見てしまうと、教員っていい仕事だなと思うようになりました」

チームワークの欠如した
職場に絶望

 ところが、教員になって7年目、中川さんは学校を去ることになる。「仕事自体は好きでしたが、小学校で働いている大人のことがすごく嫌いになって、最終的に教員を辞めたんです」と中川さん。一体、何があったのだろうか。

「チームワークを期待していましたが、職場にはチームが存在しませんでした。困っているときに周りに助けを求めても、サポートを得られないんです。誰もが自分のことで精一杯だから仕方ないといえば仕方ないのですが、問題を放置しておくと子どもたちにしわ寄せが行くから、なんとか自分たちで解決するしかありません。とても過酷な状況でした」

 それでも1年目は、「(他の職場を)知らないからこそ頑張れた」という。その結果、学級作りや授業、児童への指導、保護者対応など教員としての実力もついた。ところが2年目になると、孤軍奮闘しなければならない状況に違和感を覚え始めた。中川さんは、自分のクラスを担任するかたわら、周りで困っている様子があれば手を貸すよう努めた。この環境を変えたいと思った。それによって残業は増え、自分自身を追い込むことになったのである。

 6年目、ついに体が悲鳴を上げた。背中を痛めて、動けなくなったのだ。

 医者からは休むように指導されたが、クラス担任のため休むことはできない。プールの授業だけでも他の先生に代わってもらえるよう校長に相談すると、「子どもと一緒にベンチに座って見学してたらいい」と信じられない言葉が返ってきた。そのとき、「もうここでは働けない」と心の糸が切れた。

「この学校にはチームで働ける人がいないんだな、と心底がっかりしました」と中川さん。教員同士の無関心と無関与に絶望して、仕事を辞めた。

「教員は潰しが効かない」
なんて言わせない

 しばらくの休養期間中を経て、中川さんは次の職探しのために動き始めた。手に技術をつけようとパソコン教室に通い、デザインソフトの使い方やプログラミングを習った。そのパソコン教室でたまたま紹介されたのが、ある家具メーカーで新設予定のクレーム対応部署での派遣の仕事だった。「教員時代の保護者対応の経験が活かせるかも」と面接に臨んだところ、採用が決まった。

 ところが、中川さんの入社を見計らったかのように、もう一人のメンバーが退職してしまい、中川さんが実務全般を担当せざるを得なくなってしまった。そして気がつくとクレーム対応を一手に引き受け、関係部署に指示を出したりして、その部署を一人で切り盛りしていたのだ。

 教員時代に必死でやってきたことは決してムダではなかった。そう思えたことがうれしかった。

「教員は初日から一人でクラスを任されて、児童が30人いれば、一気に30人の部下を持つみたいなものだと思うんです。実践の中で、失敗しながらいろんなことを学べたことが私の強みになっています」と中川さん。とはいえ、教員なら誰もがそうなれるとは限らない。「私の場合、両親が、何事も自分で判断して決められるように私を育ててくれました。そのおかげもありますね」

 そして、一般企業でも実力を発揮できたことは、大きな自信につながったという。

「実は教員2年目あたりから、転職エージェントに登録して、仕事が見つかれば転職するつもりでいました。当時よく言われたのが、『教員は潰しが効かない』。それを聞いて、私は教員や塾講師くらいしかできないのか、そこにしか価値がないのかと落ち込みました。でも、教員として培ってきた経験が他でも使えると分かったのは、私には大きな収穫でした」

安定した生活は
「教員を辞めるときに手放した」

 中川さんは、クレーム対応で中心的役割を果たす一方で、社内のいろんな問題や矛盾にも疑問を持ち始めた。特に、「大事な判断を派遣社員の自分に丸投げする会社の体制に納得がいかなかった」という。会社に将来性を感じられず、10カ月ほどで退職した。「企業で働いてみて、企業がどんな感じなのか分かったし、自分の思うように仕事ができて満足した」ことも大きかった。

 2つの職場を経験し、「組織で働くのは自分には向かないかもしれない」と思った中川さんは、「自分のペースで人生を歩んでいこう」と決意する。このとき29歳。

 1年ほど前から、大学時代の同窓生と組んで、ワークショップのファシリテーターとして活動を始めた。今はそれが主な仕事の一つになっている。仕事は少しずつ増えてきているものの、まだそれだけで生計を立てられるまでには至っていない。知り合いが経営するフォトスタジオの仕事も並行してすることで収入のバランスをとっている。

 実は、このフォトスタジオからは正社員に誘われたことがあった。安定した収入は魅力だったが、「好きなワークショップの仕事をやりたい」と断った経緯がある。

「安定した生活は、教員を辞めるときに、悩みに悩んだ末に手放すことに決めました。でも、もし本当に生きていくためのお金に困ったら、また教員に戻ればいいとは思っています。私にとってのセーフティネットですね(笑)。だから今は、生活のために仕事をするんじゃなくて、自分が本当にやりたいことをやりたいと思っています」

いい人がいれば
結婚したいけれど……

 プライベートでは、教員になって2年目のときに一度実家を出たが、教員を辞めると同時に再び実家に戻った。現在は両親と同居している。次に家を出るのは結婚のタイミングだろうと考えているが、「今のところその予定はないし、この先も見えません」と中川さん。

 もちろん、結婚に興味がないわけではない。ただ、仕事に夢中になると全エネルギーを仕事に注いでしまうため、なかなか恋愛モードになれないのだという。

 教員を辞めて時間に余裕ができたとき、一度結婚について真剣に考えてみた。いま流行の婚活アプリで知り合った男性と付き合ってみたが、続かなかった。「結婚するために出会いを探しても、私はうまくできないんだと思います。だから、しょうがないかなって。いい人がいれば結婚したいですけど……」

 どうやら今は、何が何でも結婚したい、というわけでもなさそうだ。

「元々、飲み友達も多いですし、ここ数年は交友関係も広がっています。教員を辞めて落ち込んでいたとき、支えてくれたのも友達でした。友達がいるからここまでやってこられたので、友達にはすごく感謝しているんです。それに私、友達の旦那さんや子どもたちとも仲良くさせてもらっているので、それで私の家族欲みたいなものが満たされているのかもしれません」

 子どもは好きだし、教員の経験を通して自身の母性愛も実感しているという。ただ、「自分の子どもが欲しい」という感覚はあまりない。

「周りの友達は、『家庭が欲しい』『自分の子どもが欲しい』と言いますが、極論を言えば、私は自分の子どもでなくてもいいと思っています。もしご縁があれば、里親として子どもを引き取って育てる覚悟はあります」

一度だけ、
後悔したことがある

 高校受験から大学受験、就職、転職、現在の仕事に至るまで、様々な選択と決断をしてきた中川さんに、選択する際に大事にしていることをたずねてみた。

「何ですかね。私は人生を計画的に見据えたことはないんです。周りの刺激に影響されやすいので、いろんなことに興味が湧いて、あちこち流されてきた部分もあると思うんです。ただ一つ言えるのは、決断した後に後悔しないように行動してきました。これは大事にしています」

 中川さんはこれまでに一度だけ、後悔したことがあるという。それは、教員を辞めたときだ。

「教員に戻りたいと思ったし、続けられるものなら続けたいと本当に後悔しました。でも、自分に真剣に向き合って、自分が後悔していることを認めたら、次に自分がすべきことは、教員を辞めた決断を後悔のまま終わらせないことだと思ったんです」

 そのため心がけていることは、目の前のことを一生懸命にやることだ。

「今やっていることを自分なりに充実させていくと、過去に経験したことが自然と今に活かされているのを感じる瞬間があります。人とのご縁もそうです。お仕事をご依頼いただいたご縁を一つ一つ大切にしながらやっていったら、今に至るという感じです」

 今の中川さんの生活は、周りからは「不安定」に見えるかもしれない。それでも、「好きな仕事ができているので満足している」と中川さん。先のことを不安に思うよりも、目の前のことに全力投球することで、道を作っていくのが中川さんのやり方。これからも自分の選択を無駄にしない生き方を貫いて、人生を前に進めていくのだろう。

インタビューを終えて

 中川さんと仕事をすると「その場を最高のものにしようとする熱量」を強く感じる。目標設定すると、猪突猛進ではないが、一生懸命(一所懸命)のスイッチが入る。読書経験の豊富さが起因しているのか、様々なものから学ぼうとする姿勢も半端ではない。恐らく熱量の高い組織に入ると益々活躍もできるし、組織としても活性化するのだろうと感じさせる。ところが、残念なことにそうなっていない組織も少なくない。必ずしも目標設定が同じでなかったり、人と人との関係が分断されていたりすると、中川さんは心身ともに消耗してしまうのだと思う。結果的に中川さんが、安定より楽しさや充実感を選択せざるを得ないのは、そういった環境のせいかもしれない。
 中川さんも社会に出て約10年、学生時代のアルバイトの経験も含め、自己分析をする中で、不安定の中にも経験からくる自信も備わり、次から次へと人との出会いを求めて仕事についても試行錯誤している姿が伺える。ワークショップファシリテーションやフォトスタジオでのカメラマンの仕事も、人を見つめて何かを引き出そうとする仕事で、彼女自身も気づいているだろうが、小学校の教師時代にも通じるものがある。彼女の人との出会いを続けながら成長する姿をみていると、彼女の言う「安定よりも楽しさ」といった言葉の意味が理解できる。
 ここからは彼女に対するコメントではないが、中川さんのような人が活躍しにくい組織(企業)が増えている気がしてならない。安定という言葉自体に悪い意味はないと思うが、排他的であったり、変化を望まないような空気感であったり、結果的に(働くことの)楽しさに対峙するような意味に受け止められるとするならば、それは不幸な時代ではないだろうか。