第6回

Tenki Report: case.6

 紛争や貧困などで苦しむ人を助けたい――。そんな想いから、山本さん(仮名)が社会貢献できる仕事を目指すようになったのが高校生の頃。「アフリカで起業したい」と心に決めたとおり、日本向けに小物雑貨の工房を立ち上げた。今では現地の女性スタッフ約20名を雇い、雇用の創出と彼女たちの生活の質の向上に貢献している。

 また、日本で設立した販売会社では、専業主婦として4人の子どもを育て上げた母親を社長に抜擢し、母娘で事業を切り盛りしている。思春期に抱いた夢を実現し、今は母親と二人三脚で社会課題に取り組む山本さんのこれまでの半生を追った。

高校時代に育まれた
社会課題への意識

 山本さんが世界の紛争や貧困の問題に目を向けるようになったのは中高生の頃のこと。県内にあるカトリック系の中高一貫校に通っていた。高校受験に縛られない教育カリキュラムだったため、「先生たちの型にはまらない自由な授業が私の視野を広げてくれたと思います」と山本さんは振り返る。

 特に影響を受けたのが、高校の宗教の授業で聞いた神父たちの話だった。アウシュビッツ強制収容所でユダヤ人たちを支えた神父や、日本ではらい病(今はハンセン病と呼ばれている)患者に寄り添い続けた神父がいたことを知り、誰かのために自分の身を捧げる生き方に感銘を受けた。そして、「自分も目の前で苦しんでいる人たちの役に立つような仕事がしたい」と思うようになったという。

 さらに、山本さんの進路に大きな影響を与えたのが、日本人初の国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんのドキュメンタリー番組を見たことだった。それまでは、病に苦しむ人たちを助けるため医者になろうと思っていたが、緒方さんのことを知り、「紛争や貧困など根本的な問題にアプローチし、政策を通して人を救うところに共感しました」と山本さん。国際関係論を学べる大学を目指すため、理系から文系に進路を変更し、勉強に励んだ。

 そんな山本さんを両親は全面的に応援してくれた。父親は仕事から帰宅するといつも、夜中まで試験勉強に励む山本さんに「夢に向かって頑張れ!」と声をかけてくれた。よその家庭では、「女の子がそこまで頑張らなくてもいいんじゃないの?」と考える親がいる中、「父のサポートがあったから、私自身『夢を追いかけていいんだ』と思えたのはすごく励みになりました」と山本さんは話す。

 一方の母親は、「社会に役立てる子どもを育てるのが私の仕事」が口癖だった。自身もプロテスタント系スクールの出身であり、山本さんの中学受験は母親の強い意向だったという。「娘にも社会貢献に興味を持ってほしい、という願いがあったと思います」と山本さん。その願いどおり、若い山本さんの心には社会課題への意識がしっかり芽生えていたのだった。

志を見失った学生時代を経て、
自分の人生を意識した最初の選択

 志望校に合格して上京したものの、高校とは異なる大学の学習形態に馴染めず、最初は苦い思いをした。高校では規定のカリキュラムに沿って学べばよかったが、大学では自分でテーマを設定してリサーチを行うなど、自主性が求められる。その授業の進め方についていけなかったのだ。

 また、女子高出身の山本さんは、男子学生と机を並べて学ぶ環境にも戸惑いを覚えた。その戸惑いは、やがて男子学生への劣等感へと変わっていった。

 女子校では、高校2年のときにコーラス部の部長を務め、50~60人のメンバーを率いるなどリーダーシップを発揮していた山本さん。ところが、共学校ではサークルやゼミの部長は男子学生がなるもの、といった雰囲気があって、「私がわざわざ前にでなくていい」と感じてしまったのだ。優秀な男子学生と比較して自信をなくすこともあった。勉強にあまり身が入らず、「高校時代に抱いていた志など忘れてしまったかのように、4年間を遊んで過ごしました」と振り返る。

 就職活動にさしかかった頃、ふと我に返ったという。「自分の納得のいく人生にするには、このまま学生生活を終えてはいけない気がする」。友人たちが就活に励む中、山本さんはひとり、大学院への進学を決めた。

 このときのことを振り返って、「自分で自分の人生を作っていこうと決めた最初の選択だった」と山本さんは話す。「それまでの人生はどこか既存のレールに乗っていたところがありましたが、就活せずに大学院を目指すという選択はかなりの少数派だったので、自分で選んだ感覚があったんです。それ以降、周りがどうかに関係なく、自分がどうしたいか、どうありたいかを考えて選択するようになりました」。

「30歳までにアフリカで起業」
を決意するも……

 大学院在学中には2つのNPOのインターンシップを経験。それによって社会に対する視野が広がった。と同時に、日本の民間企業を巻き込みながらアフリカの開発課題を解決しようとする社会起業家たちの“スマートなやり方”と“熱いハート”に感銘を受けて、決意したことがあった。

 私も30歳までにアフリカで起業したい。

 ある日、「具体的にはどうやってアフリカの貧困を解決するつもり?」とNPO関係者に質問された。山本さんは答えられなかった。大学院でアフリカの政治を研究していたが、その研究が社会にどのようなインパクトをもたらすかを考えたことがなかったのだ。「だったら、一度社会に出て、社会がどうやって動いているのかみてみたら?」。そうアドバイスされ、博士課程へ進むのを止めて、就職活動を始めた。

 選んだ就職先は、銀行だった。お金の動きを見れば社会構造が自然と見えてくると考えたのと、当時、日本の銀行は若手の海外派遣を推進しており、海外で働くチャンスを狙ってのことだった。

 ところが、初日の入行式で、「ここは自分が来るところではなかった」と後悔した。

「頭取が壇上に上がると、皆が空気を読んで立ち上がる。その同調圧力に息苦しさを感じました。その後の新入社員研修では、同期500人くらいが何組かに分かれてディスカッションするのですが、みんな同じ答えに誘導されていくのも違和感を覚えました」。

やりたいことと目の前の仕事の
ギャップに葛藤する日々

 研修が終わって営業拠点に配属されると、山本さんは法人営業の担当になった。先輩や同僚に恵まれた職場には刺激があり、また、様々な業種や会社の情報に触れることで社会について学べるのは面白かった。しかし、「アフリカの貧困問題を解決したい」という自分の志と、人の富をいかに増やすかに重点が置かれる銀行の仕事との間に整合性が取れなくなり、次第に息苦しくなっていったという。

 私がこの仕事をやる必要あるのかな。

 自分の仕事が本当に人のためになっているのか分からずに、自分の個性がどんどん消えてなくなっていく気がして、怖くなった。

 その頃、唯一の自己表現は、髪の色を変えたり、派手な格好をしたりすることだった。先輩社員に「お前、何を目指してるんだ?」と注意されるくらい職場では浮いた存在だった。「銀行に染まりたくない気持ちの表れだったと思いますが、自分でもどうすればいいのか分からず、迷走していました」と山本さんは話す。

 そうこうするうちに東日本大震災が起きた。東京に住む山本さんに直接の被害はなかったが、「自分もいつ死ぬかわからない」という事実を突きつけられた気がした。「自分にはやりたいことがあるのに、こんなグダグダしていていいのだろうか。先延ばしにするのはもう止めよう」。職場に内緒でアフリカに関連するNGOへの転職活動を始めると、運よく採用が決まった。

 ところが、山本さんが退職の意向を上司に伝えても、なかなか承諾されなかった。山本さんを引き留めたい上司は、面談でこうたずねてきた。「山本さんはアフリカに行ったことあるの?」。

 山本さんはそれまで、現地を訪れたことは一度もなかった。「ありません」と答えると、上司は山本さんを諭すようにこう言ったのだった。「行ったことがないのに、どうしてアフリカで仕事ができるとわかるんだ?」。

 もっと現実を見ろ。上司はそう伝えたかったのかもしれない。しかし、その言葉がかえって山本さんの挑戦意欲をかき立てることになった。

初めてのアフリカ訪問、
そして夢実現へ最初の一歩

 上司の言葉にも一理あると思った山本さんは、早速、夏休みを利用してアフリカ・スーダンの地に飛んだ。実際に現地の友人にいろんな場所を案内してもらううちに、それまでアフリカに対して抱いていたイメージとは違う姿が見えてきたという。

「それまでは、空港に降り立った瞬間に人々に取り囲まれて、所持品を根こそぎ持って行かれるイメージだったんです。でも、そんなことはありませんでした。確かに物質的にはそれほど豊かな国ではありませんが、みんなが助け合いながら生きていて、日本にはないエネルギーや活気にあふれている。街にはおしゃれなカフェもあって、そこでくつろぐ自分も想像できて、これならアフリカでもやっていけると確信したんです」。

 退職の決意を新たにして帰国した山本さん。会社からようやく退職を認められ、アフリカの小規模農家に対して農業技術支援を行うNGOに転職した。銀行には2年半勤めた。

 このNGOは、アフリカ諸国に現地事務所を持ち、大勢のローカルスタッフを抱えていた。山本さんは、東京オフィスで財務や新規事業立案などを担当しながら、毎月のようにアフリカ出張に出掛けるようになった。「アフリカと言っても、国や地域ごとに全然違います。そんなことも感じながら現地の人たちと仕事をするのがとても楽しかった」と山本さんは話す。

 NGOの仕事は夕方5時には終わる。銀行で残業三昧の日々を送ってきた山本さんは、突然降って湧いたアフター5の時間を持て余すようになった。初めのうちは友達とよく食事に出掛けていたが、それにも飽きてきた。あるとき、アフリカでファッションブランドを立ち上げた日本人女性のトークイベントに参加したのをきっかけに、その会社に興味を持ち、プロボノ(職業上持っている知識やスキルを活かしたボランティアでの社会貢献)の形でその会社の創業期を支えるメンバーに加わることになった。夕方5時まではNGOで働き、そこから終電まではもう一つの会社で働く。そんな多忙な生活を送っていた。

アフリカン·プリントと
3人の女性との出会い

 NGOで働き始めて2年半が経った頃、転機が訪れた。アフリカ・ウガンダの地での駐在が決まったのだ。30歳までにアフリカで起業することを目指していた山本さんには、願ってもないチャンスだった。

 そして、起業につながる2つの貴重な出会いがあった。

 一つは、鮮やかな色使いと大胆なデザインが特徴のアフリカン・プリントである。山本さんはローカルマーケットでアフリカン・プリントを初めて目にし、一瞬で虜になった。日本ではあまり見かけない柄だった。日本から遊びに来た友人たちが口をそろえて「かわいい!」と飛びつくのを見て、「これを使えば面白いビジネスができるかも」と閃いたという。

 この布で何を作ろうか。洋服にすると日本人には派手すぎるし、サイズ展開して在庫を持つのはリスクが大きい。バッグや小物などの雑貨ならできそうだと考えた。

 しかし、山本さんには縫製やデザインの経験がなく、誰かに作ってもらわなければならない。どうしようか考えあぐねていたとき、3人の女性を紹介された。これがもう一つの出会いである。

 一人目は、縫製の経験はなかったものの、「手先が器用で一生懸命」と紹介された。二人目は、ミシンの腕前が確かなうえに、「信頼のおける人だから」と太鼓判を押された。三人目は、「レザーを扱う仕事に就いていて、レザーの手縫いが上手にできる」との触れ込みだった。

「実は彼女たちは皆、2~4人の子どもを育てるシングルマザーだったんです。縫製の技術とやる気はあっても、残念ながら教育を受ける機会がなかったために、まともな仕事に就けずに生活は苦しかったようです。調べていくうちに、他にも同じような境遇の女性たちが多くいることが分かりました。彼女らが仕事を通じて家族を養うことができ、かつ、彼女らの自己実現にもつながるようなことができないかなと考えるようになったのです」。

 そして、駐在して2年目の2015年8月。山本さんは、紹介された3人の女性たちと一緒に、アフリカン・プリントを使って雑貨を作る工房を立ち上げた。30歳のときである。

母を巻き込み
会社を設立

 事業の立ち上げに際しては、「プロボノで関わっていたファッションブランドでの経験が活きた」と山本さんは振り返る。

「最初の3年間でやるべきことのプランは自分の頭の中にあって、それを一つずつ実現していけばよかったので、特に悩むことなくスムーズに立ち上がったと思います。反対に、もしプロボノでの経験がなければ、アフリカン・プリントで何かやりたいと思ったとしても、事業化は難しかったかもしれません」。

 平日はNGOの仕事があったため、週末にサンプル作成から始めた。サンプルが完成すると、それを持って日本での販売先を探さなければならなかった。が、山本さん自身はウガンダの地を離れられない。ふと周りを見渡すと、「暇そうな人が一人いたんです」。

 山本さんは、母親に手伝ってくれるよう頼んでみた。すると意外にも、「ああ、いいわよ」と前向きな返事。そこで一歩踏み込んで、「一緒に会社を作ろう」と誘った。母親からのコミットメントを引き出すためだ。「これは母ちゃんの会社だからね」。そう念を押して、一緒に日本での販売会社を立ち上げたのである。

 山本さんのお母さんは、4人の子どもを育て上げた専業主婦で、働きに出た経験はなかった。しかし、会社の代表取締役に就任したことで、「お母ちゃんの意識が明らかに変わったように見えた」。最初、近所の友人たちに声をかけてサンプル商品を紹介していたが、あるときビジネス未経験者の「怖いもの知らずの大胆さ」で、奇跡を呼び起こしたのである。

 事の一部始終はこうだ。

 お母様は地元の百貨店で買い物しているとき、期間限定ショップが開かれている催事場の横を通りかかった。「うちの商品もこういう場所で売ってもらえばいいんじゃないかしら」。そう閃いたお母様は、百貨店のインフォメーションセンターに行き、バイヤーへの取り次ぎを頼んだという。普通に考えればあり得ないことだが、このときは幸運なことに、社内にいたバイヤーを紹介してもらうことができ、催事場でのイベント開催が決まったのである。

子育てを終えた母の
“第二の人生”

 さらに幸運は重なった。山本さんが地元メディアにプレスリリースを配信したところ、ほとんどの会社が興味を持ち、山本さんの雑貨ブランドを取材してくれた。しかも、テレビの密着取材映像が百貨店のイベントの前々日に流れ、それを見た大勢の人がイベントに訪れたのである。かくして、アフリカン・プリントを使用した山本さんの雑貨ブランドは順調なスタートを切った。

 山本さんが母親をビジネスに誘ったのは、専業主婦として家族に尽くしてきたお母様に、「もう一度自分の人生を満喫してほしい」という想いがあったからだという。

「私の30代40代は子育てで終わった、と寂しそうに言う母親に、当時の私は『だったら社会に出ればいいのに』と思っていて、母と意見が対立したこともありました。でも、自分もいろいろ経験する中で、母は母の役割を果たしたんだなと理解するようになって。子育てを終えた母が、これからの第二の人生で、今まで見たことのない景色を見られたら楽しいかな、と思ったんです」。

 山本さんは2016年にNGOを辞め、現在は自分の会社に専念している。現地の工房で働くスタッフは20人ほどに増えた。日本では拠点を東京に移し、事務所兼ショールームを構えている。商品は自社オンラインストアのほか、全国の百貨店や小売店でも売られている。

 2020年に突如世界を襲った新型コロナ。山本さんのビジネスも大打撃を受けた。工房のあるウガンダの地では同年3月末からロックダウンが実施され、あらゆる人の動きと経済活動がストップ。山本さんの工房も1カ月半ほど操業停止に追い込まれた。

 山本さんはそれまで3カ月おきに現地を訪れていたが、国境が封鎖されたためにそれもままならず、日本からの遠隔対応を迫られた。現地の公共交通機関が再び動き出して経済活動が正常化するまでにおよそ半年。「そんなに長く現地を離れたのは初めてで、不安はありました。でも、現地では大量失業が問題になる中、私たちの工房ではスタッフへの給料支払いも滞ることなく、なんとか乗り越えられました」と山本さんは話す。

リーダーシップを
次世代につなぐ

 アフリカの地で起業して7年が経った。山本さんに今後の抱負を聞いてみた。

「この7年間で得られたアフリカの地での知見を、他の小さな工房に提供していきたいと考えています。それらの工房がつながりを持ちながら、クラフト産業が観光産業の中で重要なポジションを占められるようになったらいいですよね。工房で働いている人たちは女性が多いので、クラフト産業の活性化が女性たちのエンパワーメントにつながることも願っています」。

 また、仕事とは別に、次世代を担う若者への教育プログラムも考案中だという。

「実はもうすぐ、私や会社のことが書かれた小・中学生向けの本が出るんです。それに絡めて、主に女子中学生向けに、彼女たちが自分の志を見失うことなく夢を実現していくにはどうすればいいのか、自分の人生におけるリーダーシップを養うためのプログラムを考えているところです」。

 自分の納得のいく人生を送るために、周りがどうかではなく、「自分がどうしたいか」を考えながら人生の選択をしてきた山本さん。今度は、その生き方を次世代に伝えていこうとしている。

インタビューを終えて

 真っすぐな生き方というものがあるとしたら、山本さんは最上位クラスにいるような気がする。神父さんや緒方貞子さんの生き方に感銘を受ける若者は多いと思う。しかし、その思いを貫けるだろうか。一流の銀行に就職できれば、その中でのチャンスを探すことを選択する人も多いのではないだろうか。彼女の言葉の中に「自分の個性がどんどん消えてなくなっていく気がして、怖くなった」という一節がある。多くの人は社会や会社に自分の個性をあてはめていくような気がする。それでも幸せと感じることはできるかもしれないが、何らかの代償や犠牲を支払う自分を誤魔化すといったことになるかも知れない。つまり、自分に真っすぐな生き方ではない自分を認知することになる。残念ながら自分自身は騙せない。
 本当にやりたいこととは何か。そしてやりたいことを貫く生き方とはどうあるべきなのか。これらは決して容易な問いではない。山本さんも神父さんとの出会いや緒方貞子さんを知らなければどうなっていたのか。また、後押しをしてくれる両親の存在も大きいに違いない。現在、そしてこれからの時代、自分の生き方を探したり、それに真っすぐに向き合ったりすることは間違いなく問われている。