[2]丸の内:あばら骨を背骨に変えた仲通り再整備 添田昌志

[2]丸の内:あばら骨を背骨に変えた仲通り再整備

丸の内の再開発の中核として、丸ビル、新丸ビルといった超高層ビルの建設とともに、丸の内仲通りの整備を挙げることができる。いまや、すっかりブランドストリートとしての地位を確立しているこの通りはしかし、再開発される以前は、オフィスビルの間の通用路というイメージがしっくりくるような通りであった。また、さらに歴史を遡ると通り自体が存在していないものであった。


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                      丸の内の現在の地図

仲通りの幅員が周辺の道路に比べて、かなり狭いことが見て取れる。また、皇居や東京駅ともつながっておらず、本来地区の軸とはなりにくい。縦の幹線をつなぐ文字通りあばら骨のような通りである。


歴史的には存在しなかった、もしくは、通用路的な位置付けにあった通りを、新しいメインストリートとして人々に広く認知させることは容易ではない。そのためには、以下に示す様々な手法を駆使する必要があった。

手法1:イベントの開催(東京ミレナリオ)
手法2:商業の誘導(ブランドショップ)
手法3:街路空間の一体的整備(街路樹、ペーブメント、ストリートファニチャー、看板規制、交通規制)
手法4:情報発信(仲通りHP、ガイドブック)

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東京ミレナリオ:
1999年から2005年まで、7回に渡って行われた。メディアにも大きく取り上げられ、累計1770万人が訪れた。丸の内仲通りの存在を世に知らしめた効果は計り知れない。

仲通りは上記のようなイベントや情報発信によって、通りの存在をまずメディアを通じて人々に認識させる手法を採った。メディア先行型であると言えるが、大切なのは、そのようなメディアを見て実際に訪れた人に、ここがその「特別な場所」ですよと、直感的に分からせるようにすることである。そのために、ここでは、徹底した空間のデザインコントロールが行われている。例えば、ペーブメントは通りの端まで統一し、看板・標識の類は完全にコントロールされ、袖看板は一切排除している。まるで大型ショッピングセンターのインテリアデザイン手法のようである。また、自動車も一方通行にし、時間によっては、歩行者天国にするなど交通規則さえも変更している。


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このような多大な努力を惜しまずに行う背景には、丸の内地区の歴史的な経緯から来る人々の認識-江戸時代においては江戸城門前の大名屋敷街、昭和においては東京駅前のオフィス街-を改めさせ、地区自らアイデンティティとしての軸(背骨)を持つのだという決意があるからではないだろうか。




                   通りの端から端までデザインが統一されたペーブメントと街路樹
                                        袖看板が一切ない風景


tp_2_4.jpg多様で豊富なストリートファニチャーとアート


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                    袖看板が表れると、そこは丸の内ではなくなったという証し




[添田 昌志]