生活の舞台としての都市
都市や建築を考えるうえで、人々の生活をどのように考えていますか?
シム:1971年にヤン・ゲールの最初の著書『Life Between Buildings』が出版されましたが、実はその年は、私にとっても象徴的な年でした。というのも、ちょうどその頃、私は毎日のようにレゴで街をつくっていたからです。床に座り込み、建物を並べ、道路をつくり、人の動きを想像しながら、延々と街を組み立てていました。その様子を見ていた母は、部屋中に散らばったレゴを前に、よくこう言っていました。「いったいいつになったら、この街は完成するの?」。それに対して私は、何の迷いもなく答えました。「これは街なんだ。街は完成しないよ」と。
今振り返ると、このやりとりには、とても重要な感覚が含まれていたと思います。都市は、建物が建ち終わった瞬間に完成するものではありません。人が住み、歩き、働き、関係をつくり続けることで、常に変化し続ける存在です。完成とは状態ではなく、プロセスなのです。
子どもの絵本を見ていると、その感覚はとてもはっきりします。子どもの本には、建物だけが描かれていることはほとんどありません。必ず、人が働き、運び、移動し、話をしている姿が描かれています。都市とは、建築物の集合体ではなく、無数の行為が重なり合ってできているものだということが、自然と伝わってきます。私は、建築や都市の目的は「完成した形」をつくることではなく、人生が展開されるためのプラットフォームを用意することだと考えています。主役は建築ではなく、そこで起こる「生活」です。子どもの絵本には、パン屋や運転手、店員、職人、郵便配達員など、さまざまな仕事をしている人が登場します。それは単なる職業紹介ではありません。子どもが「自分は将来、何者になるのだろうか」と想像するための風景です。
私は、日本語の「生きがい」という言葉と、この話は深くつながっていると感じています。建築家ルイス・カーンの有名な言葉に、「通りを歩く子どもは、いつか自分が何者になるのかを想像できなければならない」というものがありますが、都市や建築の役割を非常に端的に表しています。
『Soft City』の表紙やビジュアル表現についても、私は子どもの絵本から大きな影響を受けています。(図1)ここで表現したかったのは、都市の中における人の生活の気配であり、日常の動きであり、街の中に流れる時間です。都市や建築の役割とは、人生が起こるための「舞台」を整えることにほかなりません。また、街にとって大切な役割は、子どもたちが未来を想像できるような出会いがあることだと思います。誰かが働いている姿を見たり、誰かが楽しそうに話している場面に出会ったりすること。都市は、そのための余白を持っていなければなりません。
人生の意味を育てる都市
都市や建築は、人々の幸福のために何ができるでしょうか?
シム:10年ほど前に慶應義塾大学で行われたシンポジウムでは、「Measuring non-Measurable(測れないものを測る)」というテーマが掲げられ、建築・都市の研究者や建築家が集まり、議論を交わしました。一見すると矛盾しているようなテーマですが、私たちが関心を持っていたのは、数値化しにくく、言葉にしにくいにもかかわらず、確実に人の生活や人生の選択に影響を与えているものでした。その議論の中で、ある日本人研究者が示したのは、幸福には大きく三つの要因があるということです。意味のある仕事、生涯にわたる学び、そしてもう一つ、とりわけ重要な要素として挙げられたのが、知り合いの多様性でした。
それは、家族や親しい友人の外側に存在する、「知っている人たち」との関係です。毎日顔を合わせるけれど深い関係ではない人、名前は知らないけれど挨拶をする人、近所の店の店員や市場の人。こうした関係は、一見すると取るに足らないものに見えるかもしれません。しかし実は、こうした「弱いつながり」が、家族や親友以上に人生の質を支えている場合があります。社会とつながっているという感覚が、人を孤立から守り、日常の中に安心感をもたらしてくれるからです。
私が初めてヤン・ゲールの話を聞いたとき、それは都市や建築の話であると同時に、「人生において何が大切なのか」という問いに触れる体験でもありました。人の行動や関係性を丁寧に観察する彼の姿勢は、都市のあり方を考えることが、突き詰めれば、そこでどのような生活や人生を送りたいのかを考えることと深く結びついているのだと教えてくれました。
日本にとって今、非常に大きな問いの一つが、「子どもを持つこと」「子どもを育てること」だと思います。これは経済や企業の問題以上に、根本的で本質的な問いです。単に生活の質が高いだけでは不十分で、人が人生そのものに対して、強く肯定的な感情を持てる必要があります。たとえば、水辺で誰かとデートをしていて、「この人と一緒に生きていけるかもしれない」「この場所で良い人生をつくれるかもしれない」「子どもがここで遊んでいる姿が想像できる」。そうした想像が自然に浮かぶことは、将来を決断する際の、非常に重要な要素です。
都市とは、単に人を収容するための器ではありません。人が自分の人生を思い描き、選び取り、生きていくための環境です。その環境が柔らかく、開かれていればいるほど、人は未来を前向きに想像できると思います。
なぜ「Soft City」なのか
「Soft City」というタイトルには、どのような思いが込められているのでしょうか?
シム:本のタイトルを考える際には、「サステナブル・シティ」や「レジリエント・シティ」といった案もありました。どれも間違ってはいませんし、現代的で正しい言葉です。ただ、私にはどこか違和感がありました。サステナブルやレジリエントという言葉は、重要ですが、少し硬く、技術的で、人の感情や身体感覚から距離があるように感じられたのです。それに対して「Soft」という言葉には、詩的で、人間的で、感覚的な響きがあります。
私が子どもの頃に持っていたテディベアは、今のものとはまったく違っていました。中身がぎっしり詰まっていて、硬く、形は安定していましたが、抱きしめるとまるで石のようでした。
ところが、現代の子どもたちのテディベアを見ると、半分くらい空いています。理由はとても単純で、半分空いているからこそ、抱きしめる余地があるからです。柔らかく、体に沿い、人の腕の中に収まることができます。
テディベアの目的は、棚に立っていることではありません。抱きしめられることです。一匹で完成している必要はなく、誰かに抱きしめられて初めて意味を持ちます。都市も同じだと思います。最初から完璧にデザインされ、隙間なく機能が割り当てられた都市は、人を受け止めることができません。都市は、人が使い、関わり、勝手に何かを始めることで、少しずつ完成に近づいていきます。都市は、「未完成」であるべきです。
テディベアが半分空いているように、都市にも余白が必要です。座れる余地、立ち止まれる余地、勝手に使いこなせる余地。その余白があるからこそ、人は都市に愛着を持ちます。都市は、人に使われ、抱きしめられて、初めて生きた存在になります。
五感の都市としての Soft City
Soft Cityとは何か、もう少し具体的に教えてください。
シム:「Soft City とは何か」という問いに、もう少し具体的に答えていきたいと思います。一つの側面として、Soft City とは、感覚の都市(sensory city)です。私たちは建築や都市を設計するとき、非常に多くの場合、見た目、つまり視覚的なイメージだけを考えてしまいます。平面的で、静止した、一枚の写真のような都市です。しかし、実際に人が生きている都市は、決して写真のような存在ではありません。都市は常に変化している。むしろ、映画のようなものだと思います。
視覚:光は常に変化しています。朝の光、昼の光、夕方の光。太陽の位置が変われば、影の長さや角度も変わる。雲が流れれば、明るさも変わります。人はそれに合わせて、ブラインドを下ろしたり、窓を開けたり閉めたりします。
日本語には、こうした変化する光や影を表す、とても美しい言葉があります。影が移ろい、時間が流れていくことを感じさせる言葉です。たとえば「木漏れ日」。木の葉の隙間から落ちる光は、決して固定されていません。風が吹けば揺れ、葉が動けば変わる。都市も、まさにそのような存在です。人が動き、影が動き、光が動く。都市は、一枚の完成された絵ではなく、連続する体験として存在しています。
聴覚:私たちは普段あまり意識していませんが、人は常に建築や都市を「聞いて」います。部屋の中の響き、音の反射、空間の広がり。そして、歩くときの足音。
床が木なのか、コンクリートなのか、砂利なのか。素材が違えば、音も違う。音が違えば、身体の感じ方も変わります。この違いはとても繊細ですが、人の快適さや安心感に、確実に影響を与えています。
触覚:私たちは都市の中で、常に何かに触れています。手すりに触れる。壁に寄りかかる。ベンチに座る。地面を踏みしめる。だからこそ、どこに、どんな素材を使うかは、とても重要です。
もしベンチが金属や石でできていたら、冬は冷たく、夏は熱くなり、人は自然とそこを避けるようになります。一方で、木のベンチであれば、触ったときの冷たさが和らぎ、座ること自体が心地よい体験になります。
嗅覚:パン屋の前を歩くと、焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。コーヒーショップの前では、コーヒーの香りが感じられる。それは、ほんの小さな窓一つからでも、都市の体験を大きく変える力を持っています。
市場で野菜が少し持ち上げられて並べられているのも、人が触れ、匂いを感じられるようにするためです。私たちの感覚は、目や耳だけにあるのではありません。全身で都市を感じているのです。
例えば、自転車に乗っていて、木の下を通ると、風と影を同時に感じます。葉の間を抜ける光。肌に当たる風。これはとても身体的で、直接的な体験です。都市が「柔らかい」と感じられるかどうかは、こうした体験の積み重ねによって決まります。また、流れる水の音は、人間の脳の非常に深いところに働きかけます。人類がまだ原始的な存在だった頃から、動いている水は「生き延びられる」というサインでした。だからこそ、水の音は理屈ではなく、本能のレベルで心地よいと感じます。
このように、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、そして身体感覚。これらすべてが重なり合って、都市の体験はつくられます。Soft City とは、これらの感覚が排除されていない都市です。人の身体が入り込み、人の感覚が働き続ける都市です。
社交的な都市としての Soft City
シム:Soft City とは、社交的な都市(social city)でもあります。社交性というと、「人を集める仕掛け」や「にぎわいをつくること」だと考えられる傾向にありますが、私はそうは思いません。
たとえば、そこにベンチがあるだけで、人は立ち止まり、座ります。座ると、周囲を見るようになる。周囲を見ることで、他の人の存在に気づく。そうして、人と人との関係が生まれる。特別なデザインがなくても、「座れる場所がある」というだけで、社交的な状況は自然に立ち上がってきます。
例えばレストランの席を想像してみると、人は、壁に背中をつけて座ると安心します。背後が守られていると感じることで、前方に広がる空間を眺める余裕が生まれる。人と会話を楽しむこともできるし、場の雰囲気を味わうこともできる。
重要なのは、関わることもできるし、関わらないこともできる、という選択肢があることです。偶然知り合いを見かけても、今日は話したくないと思えば、視線をずらしたり、身体を壁側に寄せたりすることで、無理なく距離を保てる。この自由度が、人を安心させます。
快適な都市としての Soft City
シム:Soft Cityには「快適さ」も重要です。寒くないこと。風が強すぎないこと。日差しが心地よいこと。人は無意識のうちに、光と暖かさを求めて行動しています。この写真のベンチは、日差しを受ける位置にあります。それだけで、人は自然と引き寄せられる。日向に座ることは、とても原始的で身体的な快楽です。特に寒い季節には、その効果は顕著です。
スウェーデンのマルメのウォーターフロントには、一見すると、ただの壁に見える要素があります。しかし、この壁は風を防ぐという重要な役割を果たしています。水辺は開放的で気持ちのよい場所である一方、風が非常に強くなる傾向があります。風が強ければ、人は長くそこに留まれません。そこで壁を配置し、風を和らげることで、人が安心して座れる環境をつくっています。このような工夫によって、水辺を楽しめる季節は大きく広がります。夏だけでなく、12月、1月、2月、3月といった寒い時期でも、人は外に出て水辺に座ることができる。これは特別なテクノロジーではなく、極めてシンプルな建築的配慮の結果です。
ここで強調したいのは、社交性は「人を集めよう」として生まれるものではない、ということです。まず快適であること。その結果として、人が自然と集まり、会話が生まれ、関係が育っていきます。社交性とは快適さの副産物なのです。
イタリアに学ぶ
子どもと大人が同じ空間を共有する都市のあり方について、印象的な事例はありますか?
シム:イタリア、特にヴェネツィアの風景はとても象徴的です。広場で男の子たちがサッカーをしている光景があります。そこはサッカー場ではなく、教会の前の広場です。
彼らは教会の壁に向かってボールを蹴っていますが、その壁は完全に平らではなく、丸みを帯びています。そのため、ボールがどこに跳ね返るのかは予測できません。結果として、そのサッカーはとても予測不可能で、エキサイティングなものになります。
その場を通り過ぎる歩行者にとっても、都市の中で起きている「生きた出来事」として共有されています。すぐ隣では、大人たちがパラソルの下でカプチーノを飲み、アペリティーボやプロセッコを楽しんでいる。同じ広場の中で、子どもは遊び、大人は会話を楽しむ。子どもの生活と大人の生活が、空間的にも時間的にも分断されていません。大人は大人としての時間を持ちながら、子どもたちの様子は常に視界に入っている。「いいね、もう一回やって!」と声をかけることもできるし、正直なところ「ちょっとうるさいな」と感じる瞬間もあるでしょう。それでも、その状況を受け入れることができる。この両立こそが、都市にとってとても大切なのです。
もしこうした状況を都市の中につくることができたとしたら、それを「利益を生む」と表現してもいいと思っています。なぜなら、親であることがずっと楽になるからです。子どもを持つことが大変なのは、子どもが常に注意を必要とする存在だからです。愛しているからこそ、四六時中緊張し続けるのはとても消耗します。だからこそ、子どもが比較的自由に、安全に動き回れる環境と、大人が大人として過ごせる余地が、同時に必要なのです。
この話はイタリアの事例ですが、日本の水辺や公共空間を考えるうえでも、多くの示唆を与えてくれます。子どもを排除しないこと、騒がしさを完全に消そうとしないこと、生活の音や動きを受け入れること。そうした寛容さが、結果として大人にも子どもにも、より良い生活の質をもたらすのだと思います。
なぜ私たちはヴェネツィアが好きなのか
ヴェネツィアは、なぜ多くの人を惹きつけるのでしょうか?
シム:ヴェネツィアは、決して快適な都市とは言えません。物価は高く、観光客に対して必ずしも親切ではない場面もあります。それでも人々は、何度も訪れたいと思う。その理由はどこにあるのかを考えると、とてもシンプルな答えに行き着きます。それは、「角を曲がった先に何があるのか分からない」という感覚です。ヴェネツィアには、遠くまで見通せる大通りがほとんどありません。狭い路地が続き、視界は常に限定されている。次の角を曲がるまで、何が現れるか分からない。
角を曲がると、小さな広場が現れるかもしれない。突然、水面が広がるかもしれない。赤い壁や植物に覆われた建物が現れるかもしれない。この小さな驚きの連続が、人を歩かせ、都市体験を豊かなものにしています。
よく「それはイタリアだからだ」「歴史があるからだ」という反論があります。確かにヴェネツィアは特別な都市です。しかし私は、ヴェネツィアをそれほど遠い存在だとは思っていません。
たとえばスウェーデンの都市マルメの事例を見ると、建物のスケール、色の使い方、車のない空間、水辺の存在。注意深く観察すると、ヴェネツィアと似た要素が多くあることが分かります。これはコピーでも再現でもなく、現代建築による再解釈です。
重要なのは、歴史が古いか新しいかではありません。人間の感覚に訴える「空間の質」は、時代を超えて共有することができます。色、素材、人間的なスケール、すべてが一望できない構成。私たちはヴェネツィアそのものをつくることはできなくても、その質を現代の都市に実装することは可能です。
小さな空間が生む密度と安心感
にぎわいを生むにはどのような空間が必要でしょうか?
シム:私が強調したいのは、小さな空間の力です。空間が小さければ、そこにそれほど多くの人がいなくても、場所はにぎやかに感じられます。一方で、空間が大きすぎると、かなりの人数が集まらなければ、どこか空虚で寂しい印象になってしまう。にぎわいは人数の問題ではなく、空間のスケールの問題です。
このマルメの住宅地内Bo01の公共空間は、おそらくこの会議室くらいの大きさでしょう。決して広くはありませんが、その大きさだからこそ、母親は家のドアや窓のそばに立ち、空間全体を一望できます。誰が来たのか、知らない人が通ったのか、すべてが視界に入る。だから安心して子どもを外に出せる。同時に、玄関を出ると車がなく、水があり、子どもにとっては非常に刺激的な環境が広がっている。安全でありながら、冒険の要素もある。
子どもが成長するとは、少しずつ家から離れていくプロセスでもあります。最初は玄関の前、次はその先の角、やがてもっと遠くへ。都市空間がうまく設計されていれば、この距離の拡張が、自然に、段階的に起こります。四六時中緊張し続ける必要がない。安全が、空間そのものに組み込まれているからです。ヴェネツィアで見た子どもたちが自由に遊ぶ姿は、マルメでも見られるようになっています。
マルメでは、10歳前後の子どもたちが即席のカフェを開き、観光客にコーヒーやジュース、クッキーを売っている光景もありました。(図2)遊びでありながら、本物のお金を使い、本物の社会と接する経験です。これは、子どもにとって非常に重要な学びだと思います。
民主主義・公衆衛生・日常の祝祭としてのウォーターフロント
ウォーターフロントという空間は、都市のデザインを超えて、社会や民主主義のあり方とも深く関わっているように見えますが、その点についてはどのように考えていますか?
シム:私たちが見ているこのウォーターフロントの風景は、単に「きれいな場所ができた」という話ではありません。これは、社会のあり方そのものを映し出す風景です。
たとえば、コペンハーゲンのニューハウンを思い浮かべてみてください。水辺にはレストランのテラス席がありますが、そのすぐ隣で、コンビニで買ったビールを飲んでいる人たちもいます。高価なワインを飲む人もいれば、安いビールを飲む人もいる。服装も年齢も、来ている理由もさまざまです。異なる背景を持つ人たちが、同じ空間を、同じ条件で共有している。誰も排除されていない。誰も「ふさわしくない」と感じさせられていない。誰もが「ここにいていい」と感じられる。この状態こそが、公共空間が本来果たすべき役割です。
同時に、これは公衆衛生の風景でもあります。外に出ること、体を動かすこと、他の人の気配を感じること。ウォーターフロントは、この三つを極めて自然に満たしています。
また、水辺にはホリデー・フィーリングがあります。水辺でピザを食べている家族。自宅からトレイで持ってきた水を飲みながら、2時間ほど過ごす。これはレストランでも特別なイベントでもありません。火曜日の夜の日常です。それでも、その家族は小さな「ミニ・バケーション」を過ごしている。こうした日常の中の休日が、人生や家族関係にとって、とても大きな価値を持っています。(図3)
ウォーターフロントの風景に含まれる要素は、単なる都市デザインの話ではありません。民主主義の話であり、公衆衛生の話であり、人生の意味や生きがいの話でもあります。Soft City が目指しているのは、まさにそうした都市の姿です。
日常と休日の感覚が近接している。
ビッグプロジェクトと資本主義
日本ではウォーターフロントの多くが、大規模な一体開発として進められています。そうした「ビッグプロジェクト」の中で、Soft City 的な考え方は実現可能でしょうか?
シム:まずお伝えしたいのは、資本主義というものは、しばしば誤解されているということです。資本主義は、決して一つの硬直した仕組みではありません。とても柔軟なシステムであり、お金を生み出す方法は一通りではないのです。
日本に来るたび、私はいつも驚かされます。たとえば、10席しかない小さなレストランでも、きちんとビジネスとして成立していて、複数の人が働いている。巨大な経済と、驚くほど小さな経済が、同時に存在している国。それが日本です。
その二つの経済を、都市の中でどう共存させるかが課題です。たとえば同じ「カフェ」でも、大手チェーンが入るのか、個人経営の店が入るのかで、地域に与える影響はまったく異なります。個人店であれば、近所のパン屋や大工、配管工など、地域の中でお金が循環する。これは一つの経済のエコシステムです。
多くの新しい開発エリアが退屈に感じられる理由は、とても単純です。すべてがジェネリックだからです。一度行けば「もう知っている場所」になってしまう。しかし、人が何度も行きたくなる場所には、そこにしかない体験があります。特に重要なのは、グランドレベル、つまり人の目線の高さです。1階部分を将来に向けて柔軟に使えるようにしておくこと。そして「角(コーナー)」を丁寧に扱うことです。人の流れが交差する場所には、最も活動が生まれます。
私はいつも、こう問いかけます。「海外から友だちが来たとき、その場所に連れて行きたいですか?」。本当に良い場所でなければ、人は友だちを連れて行きません。結婚写真を撮りたくなるかどうか、という問いも同じです。感情的な愛着がなければ、その場所は成功しません。
世界のウォーターフロント事例
世界のウォーターフロントには、どのような事例がありますか?
シム:コペンハーゲンのウォーターフロントは、最初から完成形があったわけではありません。数十年にわたって、さまざまな実験が少しずつ積み重ねられてきました。特に象徴的なのが、「都市で泳ぐ」という体験です。ヘルシンキには、海に浮かぶスイミングプールがあります。街の中心にありながら、まるで海の中に入っているような感覚が得られる。外が寒くても水は温かく、季節を問わず人が集まります。
北欧では、サウナと冷たい海を行き来する体験が、日常の一部になっています。重要なのは、人がどれだけ水に近づけるかという点です。段差があり、座れ、寝転べ、安心して近づける。素材は石ではなく木が使われ、乾きやすく、冷たくなりにくい。
ウォーターフロントは、「眺める場所」ではなく、「使われる場所」になっています。泳ぐ人もいれば、ただ座って水を見る人もいる。すべてが許容されている。この使われ方の多様性が、場所の強さを生んでいます。しかし、すべてのウォーターフロントが成功しているわけではありません。整然としていても、生活がなければ、人は集まりません。違いはとてもシンプルです。水に近づけるか。座れるか。誰でも使えるか。そこに生活があるかどうか。
成功しているウォーターフロントには、必ず人の行為が重なっています。泳ぐ、座る、話す、眺める。都市が水と再び関係を結ぶとき、ウォーターフロントは都市生活の中心の一つになり得るのです。
コペンハーゲンの港湾再開発
港湾再開発の具体例として、どのような点が重要だと考えていますか?
シム:ここで一つ、コペンハーゲンの港湾再開発の事例を見てみましょう。市の中心からは少し離れた場所ですが、このプロジェクトには非常に明確な構造があります。まず、古いサイロが取り壊されずに残されています。これはノスタルジーのためではなく、場所の記憶を継承するためです。その前に広がるのが、身体的に使われるウォーターフロントです。水辺にはスイミング施設とサウナがあり、人は泳ぎ、体を動かし、滞在します。隣には立体駐車場がありますが、屋上にはジムやランニングトラックが設けられています。つまり、インフラ、生活、健康といった要素が、一つの構造の中で重なり合っています。
単なる住宅地ではなく、「行き先」になっていることが重要です。新しくつくられた場所でありながら、人が「わざわざ行く理由」がある。昼も夜も活動が途切れない。これが、成功しているウォーターフロントの条件です。
住宅だけでは、人はその場所を通過するだけになってしまう。しかし、泳げる、水に触れられる、体を動かせる、誰かと出会える。そうした行為が重なって初めて、その場所は都市の中の目的地になります。港湾再開発においては、この「行き先になるかどうか」という視点が非常に重要だと思います。
ウォーターフロントはインナーシティ以上の可能性を持つのか
この研究では、水辺が持つ都心内部以上のポテンシャルを探っています。
シム:私も水辺に可能性を感じています。ただし、その価値を単一の指標で説明しようとすると、うまくいきません。眺望や希少性、地価といった要素だけでは、ウォーターフロントの本質は語れません。生活の質全体が、一つのパッケージとして立ち上がってくる場所なのです。
高密度な都市生活は、とてもストレスフルです。特に東京のような都市では、視覚的な情報量が多く、常に刺激にさらされています。その中で、水と空の組み合わせが生み出す「視覚的な余白」は、人の内側に直接作用します。これは完全に理屈で説明できるものではありませんが、確実に人の感情や身体感覚に影響を与えているはずです。
また、非常に現実的な価値として、「涼しさ」もあります。東京の夏は過酷ですが、その中で、ウォーターフロントは比較的涼しいです。風があり、水があり、体感温度が違います。都市の生活の質を考えるとき、この違いは決定的になるでしょう。
さらに象徴的なのが、日常の中にある休日感覚です。パラソルがあり、子どもが走り回り、家族がピザを食べている。それが特別な日ではなく、火曜日の夜にも起きている風景であることが重要です。
一方でウォーターフロントの価値は、とても壊れやすくもあります。高層ビルを建ててしまえば、水と空の関係は簡単に失われます。スケールを間違えれば、休日感覚は消え、ただの「水の見える高密度エリア」になってしまいます。だからこそ、常に人間のスケールで考える必要があります。人が歩ける距離、人が顔を認識できる距離、人が安心できる高さ。人が身体として感じ取れる風や光。そのスケールで都市を考えることで、初めて健康や生活の質に関わる価値が生まれます。
投資の観点では、ウォーターフロントのような場所は、時間をかけて価値を育てる必要があります。人の記憶に残り、人生の節目と結びつき、愛着が積み重なっていく。その結果として、長期的にはより強い価値を持つ場所になります。
最後にSoft Cityの考えをまとめると、とてもシンプルに言えば、次の四つです。
・小さく考えること。小さな空間の方が、体験は強くなる。
・低く考えること。地面との関係が生まれる。
・ゆっくり考えること。人も、お金も、時間をかけることで、価値が高まる。
・シンプルに考えること。窓を開ける。ドアを開ける。座れる場所をつくる。
一つ一つは小さな行為ですが、その積み重ねが、人の生活に深く関わる体験を生み出します。硬く、完璧に完成された都市ではなく、人を受け入れ、人と一緒に時間をかけて完成していく都市。それが、Soft Cityの思想です。そして最後に強調したいのは、これは決して高価な都市づくりではないということです。むしろ、安くつくれて、時間とともに価値が高まる可能性すらあります。Soft City とは、理想論ではなく、現実的で、持続可能な都市のあり方です。