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谷中の歴史

地形など
  上野台地と駒込台地の藍染川流域の谷あい。谷中には坂が多い。
谷中生姜(葉生姜)は江戸時代に作られていたが、現在その多くは千葉、静岡で生産されている。
領玄寺には貝塚がある。
 
歴史
  もと豊島郡岩淵領や中村に属し、元禄以後は、谷中村の内、谷中墓地の崖下の地域を特に谷中本村(ヤナカホンソン)といい、これを谷中村から分別した。
谷中村時代は山林地で、百姓地が点々としていた。
上野に寛永寺が建つと子院が谷中に次々と建てられ、慶安年間に神田付近から多く寺院が移転、明暦の大火後にも、焼失した寺院が移転してきたため、寺町となった。
感応寺(現・天王寺)で富突きが行われるようになると、いろは茶屋のような青楼ができ、繁華街に変容していった。
政府軍と彰義隊の上野戦争で、多くの寺院が焼失した。
 
寺町・墓地
  上野・寛永寺が、江戸城の鬼門封じのために天海僧正によって建立され、谷中には寛永寺の子院が多く建てられた。
大火や町の整備のたびに多くの寺が移転してきたため、寺が最も多い時期には98あった。今は約60といわれている。
都立谷中霊園は、八王子の上川霊園、青山霊園に並び東京三大霊園の一つ。中央園路は天王寺の参道であり、桜の名所として有名。
十五代将軍・徳川慶喜をはじめ、有名人の墓地が多い。
その他、浄名院八万四千体地蔵のへちま供養が有名で、旧暦8月15日にせきやぜんそくで悩む人たちが集まる。地蔵は現在25,000体くらい。
加納院の築地塀も有名。
 
天王寺(感応寺)
  天王寺(旧感応寺)は、鎌倉時代にでき、改宗を経て、天台宗の護国山天王寺となった。
幕府公認の富突興行で賑わい、湯島天神、目黒不動尊、谷中感応寺の富突きは「江戸の三富」と呼ばれ、江戸の評判だった。
笠森稲荷は、瘡(カサ)、つまり梅毒や皮膚病の神として民間に信仰されていて、谷中には笠森稲荷(瘡守稲荷)がいくつかあったが、特に感応寺の境内の稲荷は、鳥居のわきの鍵屋というお茶屋に、江戸で有名な美人・お仙がいた。
浅草奥山のお藤と並び、美人の町娘として有名だったお仙は、錦絵の巨匠、鈴木晴信に描かれ、芝居にもなった。
飯田町の中坂(現・九段あたり)にある世継稲荷のご開帳に人形を奉納し、お仙のような美人の出生を祈願するのが流行った。
五重塔は正保元年に完成し谷中の名物になっていたが、明和9年に焼失。19年後の寛政3年に再建された。そのときの再建の話が幸田露伴の「五重塔」。
上野東照宮の五重塔、浅草浅草寺の五重塔、芝増上寺の五重塔と、江戸の名物建物となった。
明治41年には東京市に寄付されたが、昭和32年に心中事件により放火されて焼失した。五重塔跡は、東京都旧跡に指定されている。
 
七福神
  七福神は、室町時代末期、関西方面で庶民に信仰されていた。
数ある江戸の七福神詣での中で一番古く、宝暦頃か、少なくとも文化以前に始まったといわれている。
不忍池生池院の弁財天から田端東覚寺の福禄寿まで、台東・荒川・北の3区にわたったお寺をお参りする。他の七福神は神社も混じっているが、7つ全部お寺というのはここだけ。
 
街なみ・商店街
  上野戦争で被災したが、東京の他の地域と違い、関東大震災や戦火を受けることが少なかったので、おおよそ明治22年市政施行によって定められたものがそのまま引き継がれている。
谷中商店街は、戦後すぐに自然発生的に形成され、昭和56年(1981)には東京都の「モデル商店街第一号」として指定された。
夕やけだんだんは、商店街の階段。夕焼けがきれいに見えて住みついている猫が多い。タウン誌「谷中・根津・千駄木」の編集者森まゆみ氏の命名。
NHK連続テレビ小説「ひまわり」の舞台。