秋葉原

秋葉原地図
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フィールドワーク
辰巳 渚
 
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1.歩いた日:2006年9月25日月曜日、午前10時半から午後2時

2.秋葉原とは
  用ある者の街

 秋葉原はオタクの街として世界に名を轟かせている。街を歩いて何よりも実感するのは、この街が「電気製品を売りたい人と買いたい人」あるいは「パソコン部品を売りたい人と買いたい人」「ゲーム用品を売りたい人と買いたい人」等々の、ごくストレートな「用」を果たすための機能でできていることだ。

 言い古された用語を使えば、この街の景観にはその意味で「用の美」がある。街を歩くときの色彩の洪水、看板や展示商品などからのコミュニケーションの洪水、うっかり立ち止まると流れに飲まれそうな人の洪水‥‥。それらはいわゆる美的景観とはいえないけれど、そこにいる者を一種の陶酔に巻き込むほどの力がある。それを「美しさ」と呼んでもかまわないはずだ。

 2005年のヴェネチアビエンナーレ建築展の日本館で秋葉原が紹介されたとき、日本人は「アキハバラやオタクには、そんな価値があるのか」と驚いた。メディアでしきりに紹介されていたグリッド状の「オタクの部屋」と、現実の秋葉原の街並みは、おもしろいくらいに同じ印象だ。

 秋葉原には、個人的な体験でいえばフィリピンのマニラやタイのバンコクを歩いたときのような緊張感もある。うっかりしたところに迷い込むと、出てこられないかもしれない。部外者だとわかると、何をされるかわからない。そんな緊張感だ。これを表現すれば「用なき者は去れ」と街全体、人全体がメッセージを発しているのだといえる。(これは、たとえばローマを歩いたときの「私はどうせ田舎者・観光客よ」と思い知る感覚とは違う。つまり「都市」の緊張感とは少し違う、「混沌の集積」に取り込まれないようにする緊張感だ)

 良くも悪くも「(この街に特殊な)用なき者は去れ」といった秋葉原の個性が、駅前再開発によってどう揺れるのか。それとも、この街は中心地を空虚にしたまま個性を保ちつづけるのか。現在のとってつけたような状況からの今後の展開は、注目しなければならないだろう。

【評価1】
「用」を足すための作り・「用」を足すためにいる人々

 秋葉原クロスフィールドのウェブサイトでは、「秋葉原は、これまで消費の街だった」という形容がされていたが、消費の創造性こそが秋葉原の魅力であり、景観を形づくってきた個性だろう。消費は単なる消費(費やし消し去るだけの行為)であり、生産・創造のほうがエラいのだ、という再開発のコンセプトは、はっきり言って近代主義的な時代遅れの観がある。
 消費には新しい消費を生む力があり、また消費から生産される価値もある。A・トフラーが唱えた生産=消費者(プロシューマー)という発想は、20数年を経て現実のものとなりつつあるが、秋葉原という街のおもしろさ、特異な景観も、「創造する消費」という視点で見ると、はっきりする。
 ある特定の物やサービスを買う、という明確な用をもった人が秋葉原を訪れることで、ある特定の物やサービスを売る機能がさらに強化され、そこに場としての力が生まれる。「用なき者は去れ」という秋葉原の強いメッセージそのものにも、なにやら常習性(また来たくなる、さらに自分のものにしたくなる)がある。

 
ヨドバシカメラマルチメディア館には、次々人が吸い込まれては吐き出される。(C-1)
その他、いかにもアキバな人の姿は、以降の写真を参照
  駅前には、再開発地区に勤務しているだろうサラリーマンの群れ。余談だが、この辺のサラリーマンのスーツの色は黒がほとんどで、周辺地域で見かけるサラリーマンには、グレーや茶色のスーツも多いのが特徴だった。(C-2)

 

【評価2】
道路は通路である

 道は通るためにある。道は出発地と目的地とをつなぐ経路である。そんなあたりまえのことを痛感させられる街である。
 大通りであれ小路であれ、この「通路性」は一貫している。表参道においては、道路(歩道)の人々の動きにはムラがあり、いろいろなことをしている人がいた。オープンカフェに代表されるように、店と道はゆるやかにつながっていて、「路上という空間でくつろぐ」姿が景観の重要な一部分となっていた。
 だが、秋葉原では路上はくつろぎよりも緊張の場だ。ゆったり過ごす場ではなく忙しく行き交う場だ。鳥瞰すれば、碁盤目状に区切られた商業施設のかたまりと、その間をどの路地もほとんど同じスピードで行きかう人の流れ、というはっきりした構図が見えるはずだ。

   
みんな忙しそうに、あるいは目的地で買うものを頭に思い浮かべているかのようにまっすぐ前を見て歩いている。(C-3)   交差点での信号待ちも、身体が「前進」の矢印になっているかのよう。この場では、写真奥に向かう人の流れと、信号を渡ろうとする右向きの人の流れが明確にできている。(C-4)   すっぱりとビルと道路が分けられている場所もある。(C-5)
   
表通りもはずれに行くと、路上でこんなふうに談笑している若者がいた。次に行く店について相談しているのだろうか。(B-6)   裏通りの人の流れ。どの人の足取りも、意思的だ。(C-7)   アーケードになった市場的な商店街では、人の歩き方や通路と店舗の区分けも変わってくる。あいまいさが許される場なのだろうか。(C-8)

 

【評価3】
内と外、表と裏との境界が明快である

 物販の内・通路の外が明快に分かれている。日本橋や丸の内も同じように境界が明快だが、あえて区別するなら、秋葉原は心理的な「ショップの内」と「その外」の区別も強く、日本橋などはハードとして分かれている、と説明できそうだ。
 表と裏に関しても同様で、多くの都市によくあることだが、大型店の表通りと、オタク(べつに「萌え」に限らずパソコン部品なども)ショップの裏通りが明確に分かれている。表通りだけで用が足りる層と、表通りから裏通りを巡る層とが、おそらく分かれるのではないだろうか。

   
裏通りにある小さな路面店の店先。どれも同じ印象。テント張りの屋根あるいは店の前に開陳してある商品の前面までが、「内」なのだ。この目に見えない「内」「外」の区別、露天商の店の出し方に近い印象。つまり縄張り的な境界線を感じる、ということ。
(C-9)(C-10)(C-11)

  これは表通りの店。裏通りの「内」「外」の区別のつけ方とはまた違う。なにしろ、歩道は目的地に向かって歩く人でいっぱいなのだから、「通路か店か」という区別だけで、しっかり「内」「外」の区別になってしまうのだ。(B-12)

 

【評価4】
普請中

 長期的な街の価値とはいえないかもしれないが、日本の場合、10年以上にわたって普請中の街、あるいは常にどこかが必ず普請中の街がある、という特殊な文化であるように思う。その意味で、現在、ダイビル完成後もしばらく続く整備事業と再開発が「街の景観」にもたらす意味を取り上げたい。景観だけでない、音環境としてもとにかく「うるさい」。ショップの発する音楽などよりも、ガンガンという音と、自動車の音とが秋葉原の音だった。
 ちなみに、JR横浜駅は私の記憶(もう10数年以上)にあるかぎり、ずっと工事中だ。横浜といえば「工事中の街」という印象さえもたらすのだから、一過性のものと見過ごしてはいけないのかもしれない。

   
歩道に人が歩くスペースもほとんど確保されないビル建設現場。ひじょうに圧迫感がある。(C-13)   ダイビルがこんなに近くに見える駅周辺でも、人気がなくちょっと怖いような状態だ。(C-14)(B-15)
   
敷かれたばかりの歩道の化粧石、何の都合ではがされたのか、アスファルトの埋め戻し方を見るかぎり、この先ずっとこのままではないだろうか。こういう埋め戻し方を見ると、渋谷センター街を思い出す。レンガが剥がれたら埋めればいい、道は歩ければいい、という発想。(B-16)   私見では、商業がうまくいっていない地域では、ビルが壊され100円パーキングができていく。これは駅近にあったが、夜遅くなるときには、女性は駐車しないほうがいいのでは、と思うほど人の気配がない場所。   中央通りとJR山手線とのあいだに平行に走る道。UDXが完成した後には、にぎわうのかもしれないが、現在はあまりに閑散としている。
(B-17)

 

【評価5】
駅周辺・真空地帯

 まだ評価できる段階ではないかもしれないが、つくばエクスプレスとダイビルに代表される再開発は、まだ「木に竹を接いだ」状態だ。東京都心部に皇居という真空地帯があるように、秋葉原中心部に再開発地区という真空地帯ができた印象。
 電器街・オタクの街「アキバ」と産学提携「秋葉原クロスフィールド」とは、融合するのかしないのか。私の予測としては、最後まで融合しないまま、気に竹を接ぐ異様な景観が、アキハバラの景観として定着するのでは、と思うのだが。
 もう少し考えを進めれば、地方都市で起きている中心市街地の空洞化現象と秋葉原で起きていることには、共通性があるともいえる。地方としてはせっかくJR駅を最新設備にしても、駅を誘致しても、住民の生活は周辺郊外地域でなされており、JR駅の利用客と住民の生活との融合が起きていないのだから。

   
周囲を睥睨するかのようなダイビル。秋葉原を歩いていると、どこからでも目に入る。ランドマークとも言えるが‥‥。
(C-19)
  他の街ならセンスよく見えるオープンカフェも、道に面したベンチも、秋葉原の街中を歩いてきた目には違和感が。こころなしか、無理がほのみえるサラリーマン。(B-20)

 
   
路上で座って携帯&PC操作というサラリーマンの姿は、駅周辺でしかみられない。右上のオタク?青年と比較すると、秋葉原の今がわかる。オタク青年は、線路沿いの変な三角公園(夜にはチカンが出そうな)の手すりに腰掛けて携帯操作。(C-21)(C-22)  

 

【評価6】
規制する街

 街を歩いていて感じる緊張感は、「禁止」「監視」の要素が多いせいかもしれない。「路上喫煙禁止」「路上駐車禁止」「ゴミはマナーを守って捨てましょう」‥‥。そして工事現場では赤いコーンが並び、警備員が人がくると目を向ける。だからなのか、それなのになのか、道の汚さ路上駐輪のために、ぼんやり道も歩けないほどだ。

   
(B-23)   駐車監視員。何人もいる。(B-24)   (B-25)
   
上は「路上喫煙禁止」と「警告」と「高さ制限」の看板。下は「マナーからルールへ」の看板下に捨てられたダンボール。(B-26)   (B-27)   (B-28)

 

【評価7】
上からの圧迫

 この街は、上からの圧迫が多い。高速道路、電車の線路、電線、そして工事中のビル、もちろん看板類。地面を歩いていると目に入らない人も多いかもしれないが、街にいる人の心理になんらかの関係があるのではないだろうか。もちろん、景観をかたちづくる要素であることは言うまでもない。

   
JRの鉄橋が頭上を通る。(A-29)   立体交差。上はJR。
(C-30)
  高速道路は、このように自動車道路の上だけでなく、歩道の上もクロスしていく。(B-31)