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渋谷の歴史

明治以前
  道玄坂って・・・大永4年(1524)に渋谷城が陥ち、渋谷氏を頼って住んでいた和田義盛の末裔、大和田太郎入道道玄が野盗となった。その道玄が物見に使った松を道玄松と呼び、松があった坂が道玄坂。
この辺りに道玄庵という寺があったので道玄坂。
・・・諸説あり。字体も道源坂、道元坂との説あり。どちらにしても、追いはぎが出るような山だった。
物見の松も、古くは目黒側にあったらしく(今の松見坂)、松の木が枯れると場所が移り、現在の地が渋谷道玄坂として定着したらしい。
  江戸時代の道玄坂は、「御水さん」と呼ばれる富士講の講元・吉田家があることでよく知られていた。この山吉講は、江戸時代に盛んだった富士信仰の結社、富士講の江戸最大の講元。
 
明治時代
  豊多摩郡中渋谷と呼ばれていた。
  明治18年にできた山手線渋谷駅は、大正8年ごろまでもっと南にあった。現在貨物ホーム。
  明治の中ごろ、元禄時代から道玄坂に住んでいた山吉講の吉田家当主平座衛門が、中川伯爵に広大な土地を譲った。
  与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社があった。
  明治42年に電灯がついた。
  日清、日露戦争後の明治38年、世田谷に陸軍の兵営ができ、明治42年に代々木に練兵場ができるなど、軍人の往来が増えた。道玄坂途中の渋東シネタワーは、世田谷方面に散在する陸軍部隊に関与する憲兵隊屯所だった。
  大盛堂書店は、明治45年創業。
 
大正時代
  大和田横町(現・新詩社跡の脾)は、三味線横町と呼ばれ、酌婦が私娼として立っていた。大部分は世田谷に散在していた連隊の兵隊が客。大正5年、私娼取締規制改正強化で消えた。
  道玄坂の勾配は今の倍以上にきつく、荷車の馬も辛がった。憲兵隊(現・渋東シネタワー)の塀にもたれている男達を「立ちん坊」と呼び、5銭くらいで車を引くのを手伝ってもらった。
  円山町あたりは花柳街(荒木山芸者)。
  大正12年ごろは、道玄坂あたりに竹久夢二がお葉と住んでいた。
  ショッピングセンターの先駆けである百軒店は、中川伯爵邸跡地。大正11年ごろ、この土地が箱根土地(コクドの前身)の手に渡り、12年9月には分譲地として売りに出された。大正12年9月1日関東大震災。大正13年4月に百軒店となった。
下町で家を焼かれた財力のある商人(三中井呉服店、精養軒、山野楽器店など)が移転して、たいそう賑わった。道の中央に千代田稲荷を祀り、真中の通りにはジュラク座という劇場を作った。浅草マルベル堂もここにあった。2、3年して大店は下町に戻り、賑わいも消えそうになったが、これを機に道玄坂は道幅を広げ、勾配もゆるくし、商家の灯りも明るくした。
  渋谷の駅が現在の場所に移ってきたのは、大正9年(1920)。市電の終点は、東急文化会館の前あたりだった。
  東急玉川線(玉電)が駅ホーム下をくぐって渋谷川を渡り、渋谷橋まで開通したのは大正10年。
 
昭和時代
  昭和2年には東横電鉄渋谷・神奈川間が開通。8月に、東横線の一部(渋谷-丸子川間)開通。
  昭和9年には、井の頭線渋谷-吉祥寺間が全通し、同年東横百貨店も開業、11年には区役所の庁舎と公会堂ができた。14年には、銀座線渋谷-浅草間全通。ターミナル駅となった。
  昔陸軍刑務所だったところ(宇田川町1丁目)に、二・二六事件慰霊碑がある。
  地下鉄渋谷・虎ノ門が開通したのは昭和13年。
  ハチ公が銅像になったのは、昭和9年4月。除幕式にはハチ公も参加。
ハチ公は、東京帝国大学教授・上野英三郎氏の犬で、大正14年に亡くなった後も、里子先から脱走し、渋谷駅に通いつづけた。昭和9年、日本犬保存会の発起で資金を募集し、銅像を作った。銅像の作者は、渋谷区在住の帝展彫刻審査員・安藤照氏。ハチ公は昭和10年13歳で病死。剥製となり、国立科学博物館に保存されている。墓は、青山墓地の上野博士のそば。
太平洋戦争中、金属回収のため供出されたが、戦後、地元の商店会や町会・渋谷駅長などの努力で、昭和23年再建。この像は、安藤照氏の子息・武士氏による。
  昭和20年5月、道玄坂は米軍の空襲で焼けた。
  東急が昭和9年にデパート(現・東急百貨店東横店)を阪急の梅田駅の手法に倣って設けた。ターミナル駅にデパートを作るのは、関東では東武浅草駅の松屋(1931)に続いて2番目、全国でも3番目。それまで鉄道で渋谷に来た後に銀座・上野方面へ市電やバスで向かっていた客が渋谷で買い物をするようになった。
  昭和29年に東急会館、昭和31年に東急文化会館が設けられ、「東急の街」として発展していくが、西武系列の西武百貨店が昭和43年に渋谷へ進出し、東急と西武による開発競争が始まる。
  昭和32年、日本初の本格的地下街・渋谷地下商店街(しぶちか)オープン。
  昭和36年、大和田の高台に力道山が「リキ・スポーツパレス(リキパレス)」を建設(平成4年解体)。
  渋谷公会堂(CCレモンホール)は、昭和39年東京オリンピックの重量挙げ競技場として使用された。
  昭和44年、東急玉川線が廃止され、昭和52年、新玉川線が開通。地下鉄半蔵門線もできた。
  東京国際映画祭は1985年から開催されている。
1989年にBunkamuraがオープンすると同施設のメインイベントとなり、隔年開催から毎年開催に変更。2004年から、渋谷・Bunkamuraと六本木ヒルズをメイン会場として開催、2005年からは共催企画として秋葉原地区を会場に「秋葉原エンタまつり」を開催。
 
諸々
  宇田川の上流の代々木の原を流れるのが河骨川で、春の小川のモデル。
  与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」のは、日露戦争に渋谷駅から戦地に送られる兵士を見て作ったもの。
  林芙美子は、道玄坂で猿股を売っていた。
  恋文横町は、進駐軍兵士へのラブレターの翻訳・代筆業の店ができたところ。丹羽文雄の小説「恋文」で有名。
  通りに、スペイン坂、渋谷公園通りなどと名前をつけたのは、西武グループ。
渋谷区役所通りは、元々代々木練兵場と陸軍刑務所に向かう道だったが、東京オリンピックを機に、国立代々木競技場、NHK放送センター、渋谷区総合庁舎・公会堂などが作られた。代々木森林公園もできたので、若者が多く通るようになった。
1973年6月14日の渋谷パルコ開店を機に公園通りに改称された。GAROが「公園通り」という曲をパルコのタイアップで制作した。
  文化村通りは、東急本店通りと呼ばれていたが、1989年にBunkamuraがオープンし、呼び名が変わった。