渋谷

渋谷地図
フィールドワーク
川上 正倫
 

渋谷の景観を考えるとき、果たしてこの都市景観をなにか価値あるものとして捉えることが可能なのかと疑問を抱かざるを得ない。「渋谷」といっても人によって様々な領域を思い浮かべるであろうが、今回対象とするのは、センター街を中心に広がる商業エリアとしての渋谷である。現在この街の商業が外来者によって成立していることから必然的に駅がその中心としての役割を担っている。まさに「渋谷」という文字通り(本当は「渋谷」は単に人名を由来としているが)、渋谷川が流れ込む谷のような地形になっている。そこには川のみならず、車や鉄道などの交通機関、看板の文字情報をはじめ、物欲、食欲、性欲にいたるまで様々な人間の欲望を満たすべくあらゆるモノが流れ込み、そして淀みをつくっているエリアである。人々は駅から放流され、淀みで溺れる者、サケの川のぼりのように流れに逆らう者など思い思いに散っていく。すり鉢状の街は、栄えるそうだ。坂を下れば中心に出るからだという。渋谷もまさにそのような現象が起こっているといえる。地の利を生かした商業地域は、東急の駅前デパートの成功に端を発して、商業的に大きな発展を遂げている。また、百軒店にその祖を見いだすことができる細かな商店が建ち並ぶエリアは、まさに百貨店の屋外化であり、渋谷の街自体をひとつの大きな百貨店としてのまとまりを与えているようである。それ故に、作られ方が非常にインテリア的であるというか、建物が個々に骨格を主張していないように感じられる。そこで、ここでは、渋谷に流されてきた漂流物を観察することで「渋谷」という都市景観の骨格を検討してみたい。

 

●川が流れ込む

このあたりの地名にもなっている宇田川は、かつては渋谷川に流れ込む支流であったが今では埋め立てられて道路になっている。
歩道のつき方や建物の正面性にその名残があったりする。
 
同様に宇田川の暗渠であるが、路面が整備されていて公園等が配されている。川の流れを埋め立てている故に接地面の不自然さが目につく。もともとこの川に対して建物が消極的な関わりを持っていたことが原因であろう。

 

●道が流れ込む

もともとは川であった故に確保されていた通路が川の暗渠化に伴ってその役割が宙に浮いてしまっているのだろうか。

もともとは尾根沿いにあった通路なのだろうが、両側から建物が迫ってきた結果、忘れ去られている。建物の裏側しか接していつつもカラッとした景観を作り出している。

スペイン坂と呼ばれる、パルコのある丘を横切る通路。本流から人が流れ落ちる滝壷のような空間である。人口密度も高く、建物密度も高い。景観としても渦を巻いたようなめまい空間である。

渋谷は坂が多い。地名になっている道玄坂とさらにそれに流れこむ支流的な坂。これらがつくる複層的な景観を作り出している。

 
閑静な住宅街の道。渋谷自体との関連はまったく感じられない。流れの源の向こう側に来た感じがする。

道が合流するところで鋭く削られた建物と道が広がるように削られる建物。グランドキャニオンのような峡谷と見紛う景観といえば大げさか。

 

●建物が流れ込む

表通りと街区の中の道のヒエラルキーはかなりはっきりしている。しかし、建物のヒエラルキーの差はなく、均質な建物が詰まっている印象を受ける。

街区の先端は、その街区としてのまとまりの境界を示し、景観の質を代表するようである。
他の街区を見下ろすと行き場を失って寄り添っている姿をみることができる。ここまで混沌となると逆にまとまりをなす。

壁のような建物によって視界も建物の流れもせき止められている。密集する建物の中で唯一光を浴びるその姿は、スポットライトを浴びるスターのようである。

渋谷にとってもしかすると唯一相性の悪いのが搭状の高層ビルかもしれない。すっと立つその凛々しさが足下で蠢く漂流物に対して毅然としすぎていて愛想がない。

 
商業地域のエッジ。この塊をみていると、なんだかこの建物がおおもとの氷河で、商業地域の細かい建物がここから溶け落ちて、氷山として流れていっているような錯覚をおぼえる。

 

●旧型が流れ込む

もとからあったというよりも漂流してきたような印象をうける。

これらも元からあったというよりは、何かの狙いで古っぽく作ったのではと疑いたくなるような残り方をしている。決して取り残された哀愁などはここには存在しない。

周囲の建物とは明らかに大きさの異なる建物。景観としては、ノスタルジーという意味ではなく、緊張をほぐす役目を担っているように思える。

 

●勢力争いが流れ込む

テーマカラーがその勢力範囲を象徴する。ここは青組のエリア。

赤組のエリア。路面の赤までそのイメージと同化するから不思議である。
同種の勢力がひとつの建物の中でも勢力争いをしている。

駅を持たなければ鉄道とつながることはできない。でも一旦自分の勢力に入ってきた人々はなるべく他勢力に行かないように勢力下の建物どうしをつなぐ。屋外の屋内化が特徴の街にして、そのような屋内の屋外化というルール違反によって囲い込みを行っている姿が景観となっている。

もっとも広告費が高いといわれる円柱。扇形の街区と人の流れの方向がこの建物に経済効果をもたらしている、まさに場所勝ちの建物  

 

●交通が流れ込む

鉄道と建物が複雑に絡み合っている。電車が建物に吸い込まれていったり、歩いているすぐ上に電車が停まっている様子などその複合的な景観がこの街にスピード感を与えている。

高速道路、一般道ともに地形通り鍋の底にむかって集中していく。

坂の多いところでかつ建物が密集している所故に駐車場も複雑。
意外に路駐が少ない街。大きな駐車場ビルなども結構みかける。

高架に押しつぶされそうな景観。見上げると高架を押しつぶすような大きな建物がいる。

坂と駐車場の取り合い。どちらも似たようなすりあわせをしている。坂に対して垂直面というか平なほうが街の中心と正対しており、どうしても車は横からいれざるをえない。

 

●欲望が流れ込む

かつてのセンター街もそうであったが、鳥居のようなゲートが人々を欲望のエリアへと誘う。

夜になると活性化するエリア。様々な欲望を素直に受け入れる景観になっている。この街に車で来る人が少ないことが建物のつくりでわかる。

本当の鳥居と欲望の鳥居。何かを望んでくぐることにはどちらも同じ?

 
それぞれが自分たちの欲望に沿ってデザインした建物が並ぶ。
横に何が建っていようと自己主張はしっかりと行う。
 

 

●裏が流れ込む

裏は裏としてのまとまりがある。避難階段や駐車場のような裏的な機能が集中したりすることで意外にゆったりとしていて不思議な景観を形成している。

高い建物で囲まれた裏路地であるが、そこにも商店が入り込んでいる。

ここも駐車場でぽっかりと開いた裏空間。表よりも環境が良いかもしれない。

開発の裏。これからどのように変わるのだろうか。エリアどうしのちょうど裏が重なっている場所は、大きな通りに面していても裏的な表情をみせるから不思議である。

行き止まりの路地にも商店が入り込む。フラクタルな景観。

足下の裏と頭上の裏。流れがないところが裏になる。

 

●ルールが流れ込む

公園をつくらなければならないというルールがつくる密度不連続な景観。ペンシルビルの敷地という意味性だけは連続している。公園は、機能フリーな空地故に周囲の環境との連鎖で変質するのがおもしろい。

ちょっと見にくいが道路斜線というルールによって形状が決定された建物の連続。建物によって見えなくなっている道路の形状が建物によって視覚化されている。

 
床は平らでなくてはいけないというルール?による建物形状のゆがみ。急な坂に対してどこを基準にとるかで建物の外装が変わる。
建物には人は地上から入れなくてはいけないというルール?によってできた入隅の建物の主張。

 

●看板が流れ込む

ハチ公前広場に立つとあらゆる看板がこちらを見ていることに気づく。これらの看板によって淀みの底にいることに気づく。

小さいものが大量にあると目立つ。アリの行列、天井裏の冬眠中のてんとう虫など。

上下の連続性と道を隔てた連続性。視界に入る面積効果としてはおおきなものになっている。

同様に幼稚園とそれに正対する落書きの壁。幼児向けにアニメの絵を施すことでひとつの空間的なまとまりを形成している。

カラフルな看板が散らばる様子も風に吹かれてチラシが空を舞っていくようである。メイン以外の看板がその量と反比例してある意味で素っ気ないのも渋谷特有な気もする。

 

●淀みの底

すべての終着点であり始発点である駅前広場。広場という無の空間も様々な目的、世代を受け入れる空間である。

 

冒頭でも述べたように、「渋谷」という枠組みでの都市景観について、例えば「美しさ」を評価基準とするような景観評価軸にのせることはナンセンスであり、極めて否定的な立場を取らざるを得ない。しかしながら、渋谷が楽しく、そしてエキサイテイングなのもまた、渋谷の景観がもつ価値なのではないかと感じる。駅を中心に扇形の島々は、それぞれが個々に独自の文化を持っており、それぞれがそれぞれに特有の景観をもっている。街の中にいくつもの繁華街を抱えており、さながら百貨店のフロアのようなまとまりを形成している。そして、実際の百貨店は、中でも大きな塊として各々のエリアの景観の中核を成している。どこからか漂流してきたものだらけなだけに様々な世代や目的にリンクする景観のまとまりを見出すことができる。その景観のるつぼとしての懐の広い発展性がこの街の魅力であり、価値であろう。