192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス (アメリカ合衆国)

192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス

192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス
192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス
192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス

192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス
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192 ファニュエル・ホール・マーケットプレイス

ストーリー:

 ファニュエルホール・マーケットプレイスは、フェスティバル・マーケットプレイスの父と言われたジェイムス・ラウスが手がけ、1976年に開業した商業複合施設である。それまでも倉庫や工場といった施設を商業施設として成功した事例がないわけではなかった(例えば「都市の鍼治療」no. 27のギラデリ・スクエア)。しかし、ファニュエルホール・マーケットプレイスの成功が、その後、同マーケットプレイスをプロトタイプとするフェスティバル・マーケットプレイスというコンセプトの商業施設を、アメリカ合衆国をはじめ、日本を含む世界中の多くの都市においてつくらせる契機となる(日本で代表的な事例は、福岡のキャナルシティであろう)。
 ファニュエルホール・マーケットプレイスはクインシー・マーケットと呼ばれていた3つの花崗岩でつくられた建物からなる元市場と、ファニュエルホールと呼ばれた集会場の建物から構成される。ファニュエル・ホールは1742年に、当時ボストンの有力な商人がボストン市に寄付したもので、そこは市場であると同時に政治的な演説をする場所として使われることになった。サミュエル・アダムスがボストン市民を扇動し、イギリスからの独立運動を起こした演説をしたのもここだし、また、ジョージ・ワシントンが独立国として最初の誕生日の乾杯をした場所もここであった。最近ではオバマ前大統領もここで演説をし、そのような歴史からも、この場所は「自由の揺り籠(The Cradle of Liberty)」とも呼ばれている。また、市場としても栄え、1826年には隣接した海岸を埋め立てて、クインシー・マーケットを整備した。ここはそれ以降も、ボストンの「胃袋」として中心的な市場として機能していたのだが、空間が手狭になったことと、建物が老朽化したために、使い勝手はどんどん悪くなっていた。
 そこで1961年にボストン再開発公社による大規模なダウンタウンのウォーターフロント再生事業の一つとして位置づけられるのだが、それらを壊すのではなく、その建物を修繕した活用法を検討することにした。
 連邦政府の住宅都市公社から歴史保全事業として2億円相当の補助金を受け、1970年にボストン再開発公社はコンペを行った。選ばれたのはベンジャミン・トンプソン(建築家)とヴァン・アークル・モス(デベロッパー)のチームであったが、財政面での問題が生じたため、代わりに、ジェイムス・ラウスがデベロッパーとして参画することになる。ラウスは、既にメリーランド州の新都市コロンビアの開発や、郊外のショッピング・モールのデベロッパーとして広く知られていたが、いつか郊外ではなくて都心部においてもショッピング・モールの開発が経営的に成功することを示したいと考えていた。ラウスにとって、ファニュエルホール・マーケットプレイスはそのような開発をするのにまさに打って付けのプロジェクトであった。
 ラウスがとった戦略は、これらの建物を統合させて巨大な建築をつくり、大規模な商業テナントを誘致するのではなく、小さいスケールのまま維持し、代わりに小規模なテナントを多く誘致するというものであった。その結果、160の小規模な小売店がここに立地することになる。
 当時は、古い建築物をリノベーションして商業施設に転用して成功した事例は、サンフランシスコのギラデリ・スクエアしかなかったこともあり、金融機関は出資を渋った。しかし、ラウスは全米教員保険協会、そしてボストン市、マサチューセッツ州、連邦政府から金を引き出すことに成功する。加えて、ボストン市はこの土地を99年間、年間1ドルという破格の安さでラウスに貸すことを決定する。
 テナントに関してだが、中心の建物はおもにレストラン等が入っており、その両脇の建物にはアパレル系の店舗が入っている。そして、画期的なのは手押し車の小売店(プッシュカート)を建物の外周を巡る街路、さらには建物の中の通路に何台も置いたことである。これは、現在ではアメリカのショッピング・モール等では見慣れた光景であるが、このように大量のプッシュカートを集積させることを最初に試したのがこのファニュエルホール・マーケットプレイスであった。
 ファニュエルホール・マーケットプレイスは大成功を収め、開業して数年で、周辺のショッピング・モールに比べると面積当たりの売上高は3倍以上にもなったそうだ。ファニュエルホール・マーケットプレイスには、年間で約1800万人(2016年のデータ)が訪れる。現在、ファニュエルホール・マーケットプレイスには49の小売店、53のレストラン・パブ、44のプッシュカートが店を出している。
 ジェイムス・ラウスはファニュエルホール・マーケットプレイスのような都心での複合商業空間を「フェスティバル・マーケットプレイス」と命名する。彼は後に、前述したように「フェスティバル・マーケットプレイスの父」と呼ばれるようになるのだが、最初につくられたそれが、ファニュエルホール・マーケットプレイスであったのだ。

キーワード:

都市計画

ファニュエル・ホール・マーケットプレイス の基本情報:

  • 国/地域:アメリカ合衆国
  • 州/県:マサチューセッツ州
  • 市町村:ボストン市
  • 事業主体:ボストン再開発公社(Boston Redevelopment Agency), ボストン市
  • 事業主体の分類:準公共団体 
  • デザイナー、プランナー:Benjamin Thompson and Associates, James Rouse
  • 開業年:1976年

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 ファニュエルホール・マーケットプレイスの成功を受けて、アメリカだけでなく、世界中で似たような都市空間がつくられたこともあって、現在、ファニュエルホール・マーケットプレイスを訪れても、お洒落な商業空間だなと感心するぐらいで終わってしまうかもしれない。しかし、ここは歴史的建造物を活かして都心再生を図った最初の事例であり、その後の都市再開発のあり方にエポック・メーキング的な影響を与えることになる。「都市の鍼治療」的に都市を人間の身体に例えていうならば、抗生物質が発見されたことでその後の治療法が大きく変わったほどの影響を与えたのである。それまでは、似たような状況であった場合、歴史的建造物を壊して更地にしてから新しい建物をつくるような手法が採られていたのである。
 その再生計画において、建築家のトンプソンはオリジナルな建築意匠をできる限り保全するということであった。ファニュエルホール・マーケットプレイスの全体性をいかに維持するかを彼は重視したのである。ファニュエルホール・マーケットプレイスは都市再開発事業の成功例として広く知られているが、もう一方で、歴史的建築物を保全する意義、そして、そのことで経済的価値も生み出すということを広く示したことで、その後のアメリカの都市再開発に極めて大きな影響を与えた。実際、フェスティバル・マーケットプレイスの再生によってボストン市は経済的にも大きなプラスとなったのである。
 フェスティバル・マーケットプレイスは都市のディズニーランド化の嘆くべき現象であると批判する都市研究者もいる。筆者が尊敬をしているピーター・ホールもそのうちの一人である。確かに、フェスティバル・マーケットプレイスは消費の空間であり、ある意味、安易な空間のブランド・イメージを広めたという批判は妥当かなと思わないでもない。ただ、歴史的建築物をしっかりと保全し、かつ、それを現代社会において有効に活用する方法論を提示したという点で、さらに、それによって経済的価値をも付加させたことで地域経済にも寄与した。これは、まさに革命的な都市の鍼治療の事例ではないかと考える。

【参考資料】
Alexander Garvin, “The American City ? What works, What doesn’t”

類似事例:

005 パイク・プレース・マーケット
006 バロー・マーケット
017 デービス・ファーマーズ・マーケット
073 ボケリア市場
078 インナー・ハーバー
080 富山グランドプラザ
115 ミラノ・ガレリア
142 グランヴィル・アイランド
153 フェスケショルカ
180 門司港レトロ
195 ギャルリ・サンテュベール
202 デッサウのバウハウス・ビルディングの保全
206 クヴェードリンブルクの街並み保全
214 ヴィクトアーリエンマルクト
251 杭瀬中市場の再生
261 ラリマー広場(Larimer Square)の保全
・ ファッション・ディストリクト、フィラデルフィア市(ペンシルベニア州、アメリカ合衆国)
・ サウス・ストリート・シーポート、ニューヨーク市(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)
・ リバーウォーク・マーケットプレイス、ニューオリンズ州(ルイジアナ州、アメリカ合衆国)
・ ユニオン・ステーション、セント・ルイス市(ミズーリ州、アメリカ合衆国)
・ ユニオン・スクエア・ファーマーズ・マーケット、ニューヨーク市(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)

・ アルト・マルクト、デュッセルドルフ市(ドイツ)

・ グランド・バザール、イスタンブール市(トルコ)