180 門司港レトロ (日本)

180 門司港レトロ

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180 門司港レトロ
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180 門司港レトロ

ストーリー:

 門司港レトロとは、JR門司港駅周辺地域にある歴史的建造物を中心に、大正レトロを意識して修繕、空間演出をした事業である。その面積はおよそ91ヘクタール(レトロ中心地区)に及ぶ。
 門司港の開港は1889年。背後にある炭田を資源として北九州は日本の工業拠点となるが、門司港はまさにその玄関口であり、大陸貿易の基地として位置づけられた。その繁栄は凄まじく、国内航路を含めると、年間600万人ほどの乗降客がいたと言われる。門司港周辺には税関事務所、金融機関、商社などの建物が建ち並ぶことになる。
 しかし、その後、関門海峡トンネルが開通し、門司港は通過されるようになり、さらに石炭産業が衰退し石炭の積み出しがなくなり、これらと歩を合わせて工業都市としての北九州にも陰りが見えるようになって門司港は衰退の一途を辿る。この衰退は1980年頃まで続くのだが、1987年に末吉興一氏が市長になると状況は大きく動き始める。
 末吉市長は就任直前に門司港を訪れ、ここをどうにかしないといけないと考える。ただ、新しいものをつくるエネルギーはない。しかし一方で、衰退の港であったがゆえに貴重なレトロの近代建築は残っていた。そして、それらが解体する危機を迎えていたこともあり、末吉市長は、これらを活かして、昔の豊かさの記憶を継承させるような街づくりを指向しようと考え、「門司港レトロ」をキーワードにしたまちづくりを進めようと提唱する。「歴史的な文化遺産を活用し、すばらしい自然を生かしながら産業としての都市型観光整備こそ、門司港の生きる道」(『門司港レトロ物語』、p.4)と考えたのであった。そして、そのまちづくりを民間主導ではなく、行政主導で遂行することにしたのである。
 一方、このレトロ地区にある歴史的港湾の第一船溜まりの埋立計画が、既に末吉市長の前の谷市長時代に決定されており、国も承認済みのような状況にあった。せっかく、歴史的な文化遺産を活用する街づくりを進めようとしているのに、この貴重な歴史的資源、そしてアメニティ溢れるウォーターフロントが埋立されたら、その試みが台無しになる。この矛盾した計画に地元住民、有識者は異論を出し、それを受け末吉市長は埋立回避を決定し、国の認可を取り消した。これは、今、振り返ってみると、レトロ事業の成否を決定づけた英断であったと思われる。
 これに加えて北九州市は、幾つかの国の省にまたがる事業を並行に進めるという形になったため、縦割り行政の弊害を取り除くためにも現地に門司港レトロ事業推進室を設けたり、中央のイベント会社に企画を任せるのではなく地元の手作りの企画で運営したりと、事業の起動時において、それを丁寧に遂行させるよう配慮をしたこともあり、住民や民間企業などもそれを支援し始める。
 行政主導ではあるが民間も「門司港開発準備会」を設立し、出光興産などの地元出身企業、地元企業、さらには西洋環境開発が開発に関与する。当初は民間の開発部分はアメリカのRTKL社がマスタープランを担当し、公共空間は(株)アプル総合計画事務所の中野恒明氏が担当という二人三脚で計画を進める筈であったが、RTKL社の案は事業を遂行するうえで時間や予算がかかりすぎるということもあり一年で撤退する。結果、中野恒明氏が一人でマスタープランを策定するような形になり、これが総合的なデザインでの空間設計の実現へと結びつくことになる。マスター・プランナーの中野氏の考える基本デザインの理念は「レトロ事業は、歴史的建築物があくまで主役。土木構造物はそれを引き立てる脇役であり、それ自体が目立ってはいけない」(『門司港レトロ物語』、p.93)というもので、建築物を中心にデザインされた空間は、歩行者にも優しいものとなった。
 そのように事業が展開していく中、一つの大きな事件が起きる。門司港レトロの中心地に大正七年建設の大きな赤レンガ倉庫が立っていた。この倉庫も、門司港レトロの重要なコンテンツとしてその活用を市は考えており、所有者と折衝していたのだが、それも虚しく、1993年に倉庫は解体され、マンションが跡地に建設されることになった。ただ、そのマンションは横に広がる板状の巨大な建物であり、これによって周辺の景観は一変し、門司港レトロの雰囲気が台無しになってしまう。そこで、住民を巻き込んだマンション論争が始まり、争いは裁判所で行われることになり、結果、横状の建物ではなく、鉛筆のように細い超高層の建物にすることで解決をみることになった。この論争で、それまで傍観的であった住民は、積極的にまちづくりに参画するようになり、門司港レトロの事業を支える重要な役割を担うことになる。門司港の人達は美意識が高いと評価され、その後の都市デザイン事業でもしっかりとした意見を発するようになるのだが、それは、このマンション景観論争など、門司港レトロ事業とともに育まれていったものではないか、とこの事業に長年携わってきた城水悦子氏は筆者の取材にこたえてくれた。
 そして、このような様々な悲喜交々のドラマを経て1995年に「門司港レトロ事業」はグランドオープンする。保全活用された代表的な建築部は、JR門司港駅(1914年築、国の重要文化財)、北九州旧門司三井倶楽部(1921年築、国の重要文化財)、九州鉄道記念館(1891年築)、北九州市旧大阪商船(1917年築、国の登録有形文化財)、門司区役所(1930年築、国の登録有形文化財)、北九州市旧門司税関(1912年築)、旧三井物産門司支店(1937年築)などである。これらに要した総事業費は約295億円であった。
 このレトロ事業でブランディングに成功した門司港は、その後も、アルド・ロッシ設計によるホテルの開業(プレミアホテル門司港)、海峡プラザと呼ばれる複合商業施設の建築、出水美術館の開館、レトロ観光列車の運行、門司港駅の本格改修などに取り組み、さらなる発展を目指している。
 開業一年目の1995年の観光客は212万人であった。これは、それまで観光地としてほとんど認識されておらず「船会社と倉庫だけがあって、人も寄りつかなかった」(城水氏)門司港地区としては画期的な数字であった。さらに、その数字は2003年までは延び続け、同年での観光客数は393万人となった。その後は、少し減少するが、それでも年間300万人の観光客を呼び込むことに成功している。
 この事業は国土交通省の都市景観100選、土木学会デザイン賞 2001 最優秀賞を受賞している。

キーワード:

歴史建築, 都市デザイン, ウォーターフロント

門司港レトロ の基本情報:

  • 国/地域:日本
  • 州/県:福岡県
  • 市町村:北九州市門司区
  • 事業主体:北九州市、門司港開発株式会社
  • 事業主体の分類:自治体 民間
  • デザイナー、プランナー:末吉興一(北九州市長)、中野恒明((株)アプル総合計画事務所)、RTKL社など
  • 開業年:1995年

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 門司港レトロの基本コンセプトは、建物自身の個々のディテールに拘るのではなく、門司港レトロという街をつくるというアプローチにある。すなわち、点ではなく面で空間を形成させようと考えたのである。
 門司港レトロを訪れたlは、「良くこれだけ歴史建築物が残っていた」と感心するそうだが、これらのほとんどが取壊の瀬戸際に立たされていた。それを阻止できたのは末吉市長の英断があったからで、ギリギリセーフというのが実態であったそうだ。そういう意味で、末吉市長こそが、この門司港レトロ事業の産みの親として捉えられると考えられる。
 門司港レトロ事業が上手くいった理由は幾つか挙げられるが、公共空間を総合的にデザインしたことは極めて重要であったと考えられる。この事業がスタートした1989年は、幾つかの縦割り事業が並行して展開していた。それを、この都市デザイン計画を委託された中野恒明氏は「コンサルタントを引き受ける以上、総合的なデザインで設計しなければ意味がない。他の事業も同時に担当させてほしい」と市に訴え、結果的に彼が統括的に担当することになる。その結果、コンセプトが統一された空間デザイン計画が具体化されたのである。彼は、また歴史的港湾の第一船溜まりの埋立計画が中止されなかったら仕事は引き受けられない、とこの計画の弊害を主張した。当時はまだ若かったこの一人の都市デザイナーの強い理念によって、門司港レトロの事業コンセプトに一本、芯が入っったのである。
 また、もう一つの大きな理由は、それまで公共事業の主人公として位置づけられていた土木構造物を「脇役」とし、歴史的建築物を主役として据えたことである。さらに、自動車ではなく人を中心に捉え、人の動線を中心に地区づくりを遂行する。日本で最初の歩行者専用の跳ね橋であるブルーウィングは、その象徴的プロジェクトであろう。このようなアプローチがアメニティ溢れる都市空間の魅力を発揮させることに繋がった。
 加えて、多くの人達の情熱のような熱い思いがあった。その思いを有しているのは北九州市役所の人達、マンションでの景観論争を経た後の住民達だけでなく、この事業に取り組んだ都市デザイナーや建築家達もそうである。特に「門司港の美貌」と讃えられた「旧大阪商船」の補修工事の実施設計を行き受けた建築家の城水陽一郎氏は、予算通りの補修工事ではあまりにもみすぼらしくなるので「工費は努めて抑えるので、せめて外観だけでも、創建時の華やかなデザインを復元したい。ここままではレトロのまちづくりに傷がつく」と再発癌の病魔で苦しむ中、市役所に強く訴え、復元の約束を取り付けた後に他界する。城水氏の強い訴えがあったために、現在の商船ビルは大正期の偉観を再現できているのだ。
 北九州は五市を合併してつくられた工業都市であり、そこにはそのアイデンティティのようなものを明快に主張できるものがなかった。しかし、この歴史的にも重要な場所であった門司港を、その歴史が継承されるような形で保全されることで、シビック・プライドを醸成させることにも成功させた。規模は大きいが、都市の「命」の危機において見事にそれを回避させた素晴らしい「都市の鍼治療」事例であると考えられる。

【参考資料】『門司港レトロ物語』(北九州市、(財)北九州都市協会)
【取材協力】中野恒明(アプル設計事務所)、城水悦子(株式会社洋建築計画事務所)


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